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♯217

顧問の子安の話を聞きながら、「子守唄」で自分の演奏に欠けていたものを悟る未乃梨。

一方で、遠くから空き教室に聴こえる吹奏楽部の「子守唄」と、千鶴が練習している「オンブラ・マイ・フ」を対比する凛々子は……。

(誰のために、演奏するか……)

 未乃梨(みのり)は、フルートを膝の上に持ったまま、やっと顔を上げた。

(私、誰かのためとか、そんなことは全く考えてなかった……! 自分が上手く演奏できるかとか、演奏と関係ない昨日の千鶴(ちづる)のことばっかり考えてて……)

 子安の言葉に、テューバの蘇我(そが)が納得していない様子で問い掛けた。

「子安先生、そんなことで、演奏って変わるんですか? それで、コンクールに通用するんですか?」

 蘇我の隣に座るテューバの二年生の新木(あらき)が、血相を変えて蘇我を「おい、お前――」と遮ろうとしたところで、子安があくまで穏やかに蘇我に答える。

「蘇我さん、良い質問です。まず、私たちは『ドリー組曲』をこの曲のあるべき姿で演奏しなければ、そもそも話にならないんです。そうして、作品を理解したうえでの表現が出来なければ、コンクールで評価されるはずもないのですよ」

 テューバを抱えたまま、蘇我は「……分かりました」と引き下がった。

 未乃梨は、子安と蘇我のやり取りを聞きながら、取り留めもなく考えを巡らせた。

(今日の私、曲を分かった上で演奏するっていうことが、多分出来てないのとおんなじだ……。千鶴のことばっかり気にしてて、それで余計に力んでて)

「それでは皆さん、『ドリー組曲』の『子守唄』、もう一度合わせてみましょうか」

 未乃梨は襟を正す気持ちで背筋を伸ばした。顔を上げた未乃梨を、子安が一瞬見たような気がした。


「オンブラ・マイ・フ」を通し終えた千鶴(ちづる)が、ふと空き教室の窓の外から聴こえる音楽室の合奏の音に振り向いた。

 先程より穏やかさを増した吹奏楽部の合奏の音に思わず聴き入る千鶴を見て、凛々子(りりこ)も「あら?」と窓辺に近付いて耳を傾けた。

「千鶴さん。今吹奏楽部が合奏でやってる『子守唄』、さっきより素敵ね」

「そう、ですね。このフルートの音、もしかして」

 千鶴はコントラバスを身体に立て掛けたまま、窓の方を振り向いた。穏やかに歌うフルートが、真夏の熱い風の向こうからうっすらと聴こえてくる。

 凛々子は窓の外を見たまま、さして意外そうでもなく頷いた。

「きっと、未乃梨さんね。ところで千鶴さん、この『子守唄』と、さっき千鶴さんが通した『オンブラ・マイ・フ』、もしかしたら共通点があるかもしれないわ」

「共通点って? 『子守唄』は赤ちゃんを寝かせる曲だし……」

 凛々子は空き教室の窓辺から離れると、千鶴の近くの机の上に腰掛けた。

「そうね。一方で、『オンブラ・マイ・フ』はお気に入りの寛げる木陰を思う歌でしょう?」

 凛々子の言葉に、千鶴は頭の上に浮かびかけた疑問符を仕舞う。

「ああ、お昼寝を見守る側と、お昼寝をする側、みたいな?」

「そう。視点は真逆だし、お昼寝するのが赤ちゃんか大人の王様か、っていう違いもあるけれど、ね」

 凛々子は窓から千鶴に視線を移すと、緩くウェーブの掛かった長い黒髪を軽く掻き上げる。凛々子の髪の甘い香りが漂ってくるようで、千鶴は少しばかり気まずく思いつつ、窓の外から流れてくる「子守唄」に聴き入った。

 音楽室から流れてくる穏やかな「子守唄」の旋律は、千鶴がコンクールの地区大会の舞台裏で聴いたものとは少し違っているように思えた。

 抑制の利いた穏やかな旋律は、どこか眠りを誘うような、今が真夏であることを忘れそうな優しい心地良さを含んでいる。聴き入る千鶴の顔を、凛々子は興味深そうにのぞき込んだ。

「ねえ。千鶴さんが『オンブラ・マイ・フ』を歌う王様だったら、木陰の枕元にいてほしいのは誰かしら?」

 どこか誘うような凛々子の口調に、千鶴は胸の奥で何かが跳ねるような、唐突な緊張を覚えて、身体に立て掛けたままのコントラバスのネックに隠れて凛々子から視線を逸らす。

「……そんなの、分からないです。私は王様じゃないし」

「あら、未乃梨さんではないの?」

 凛々子に問われて、千鶴はほんのしばらくの間、黙り込んだ。

(未乃梨のことは好きだけど、……「カノジョになりたい」って言われても何て返事をすればわからないのに……)

 口をつぐむ千鶴は、近くの机の上に腰掛ける凛々子のことも見ることが出来なかった。

 制服のブラウスの前のボタンを全て開けてブラウスの端を結んだ、制服を着崩した今日の凛々子は、千鶴にはまじまじと見るのをどこかためらわれた。

 凛々子の開いたブラウスの中からのぞくキャミソールに覆われた胸元も、先日のプールで見た未乃梨の水着姿よりははるかに肌の露出は少ないのに、千鶴は正視をためらってしまう。

 先に口を開いたのは凛々子だった。

「では、王様のお側にいる役は私が務めてもよろしいかしら?」

 その、年下の弟や妹をからかう姉のような、いたずらっぽい響きの言葉につられて、千鶴はやっと凛々子を見た。凛々子の表情には、いたずらっぽさの内側からどこか優しさが滲み出ているような、千鶴を惹きつける微笑が浮かんでいる。

 音楽室から聴こえてくる吹奏楽部の合奏は、「子守唄」からいつしか小さな子供が遊び回るような、軽やかな三拍子の音楽に切り替わっていた。


(続く)



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