♯214
凛々子に出された音階の課題に取り組むうちに、少しずつ聴こえてくるものが、出せる響きが増えていく千鶴。
一方で、未乃梨は昨日の一件が演奏に響いているかもしれないという問題に気付いて。
凛々子は、千鶴が弾く遅いテンポのハ長調の音階を聴きながら、微かに眉を動かした。
(今のA、明らかに響きが違ったけれど……)
千鶴が弾くコントラバスの太くて長い弦のうち、弓も左手の指も触れてすらいないどれかが、ハ長調の音階の途中で明らかに反応して振動している音がした。
千鶴はそのままハ長調の音階をゆっくりコントラバスのG線で上がっていく。A、H、C、と進んでDに上がろうとして、千鶴がDの音を低めに外しかけた。
その次の瞬間、Dの音を探る千鶴の小指が押さえるポジションを僅かに上げた。くすんだ響きだった外しかけたDの音が、ハ長調の音階の中で正しい位置に収まろうとして開放弦の共振を得た豊かな濃さを帯びていく。
凛々子は千鶴の弾く音階を聴きながら、内心で頷く。
(さっきのはAで今度はD……ゆっくりのテンポなら、音程を外しても正しい音程に復帰できるようになってるってことかしら)
千鶴のコントラバスがハ長調の最初のCに戻って来たところで、凛々子は千鶴に弾くのを止めさせた。
「はい、ストップ。千鶴さん、さっきのDの音だけれど」
凛々子の言葉に、千鶴はどきりとして背筋を正す。
「……あの、音を外しちゃって途中で誤魔化しちゃいました」
「それはそれで正解よ。それより、すっごく良い音で弾けてたの、自分でも気付けたかしら?」
凛々子に問われて、千鶴は一瞬考え込みそうになってから、恐る恐る、G線のAを弾きだした。
「こういう、やつのことですか?」
千鶴が弾くAは、しっかりと開放弦の共振を起こして豊かな響きを含んだ音で鳴っている。凛々子は、「それよ」と言い切った。
「今弾いたAの音、一オクターブ下のA線の開放弦が共振してたの、分かったかしら?」
「ええと……はい」
自信が無さそうに答える千鶴に、凛々子は自分のヴァイオリンを取り上げて説明を始めた。
「開放弦のどれかと同じ音やオクターブの関係の音を弾いた時に、弾いていない弦が共振してたっぷり響くのって、音程が合っている証拠よ。自信持ちなさいね。それと」
凛々子は、今度はヴァイオリンで何かの音を弓で弾いてから、左手で押さえている弦の振動を殺さないように、そっと弓を弦から離した。
「ちゃんと音程合ってたら、弦楽器ってこんな事も起こるの。ヴァイオリンもコントラバスも一緒よ」
コントラバスとは違う、凛々子の弾いた軽やかなヴァイオリンの弦に残った音が、高い音の響きを残してゆっくりと消えていく。
「あれ? 今のも、開放弦と同じ音を弾いたんですか?」
「今弾いたのはヴァイオリンの開放弦にはないCの音よ。だけど、Cの音は開放弦にあるGの音と関係が強いから、音程が合ってるとG線の開放弦が共振するの。周りの音響次第ではなかなか聴こえにくいけれど、ね」
凛々子の説明を、千鶴は面食らいながら聞いていた。話の内容についていけるようないけないような、微妙な表情の千鶴に、凛々子はくすくすと微笑む。
「コントラバスからヴァイオリンまで、弦楽器の演奏には大事なことなの。今は、調弦が合ってる楽器で正しい音程で弾けたら、綺麗に響く音がするっていうことを覚えておいてね。では、今のことを踏まえて、次はイ短調の音階を弾いてみましょうか」
小学校の先生のように凛々子に優しく促されて、千鶴はイ短調の音階をコントラバスで先程のようにゆっくりと、全身を耳にして自分の音を聴きながら、弾き始めた。
音楽室では、コンクールの課題曲の「スプリング・グリーン・マーチ」の合奏を一度通し終えたところだった。
未乃梨は自分のフルートから唇を離して膝に持つと、椅子に座ったまま深呼吸をした。
顧問の子安が、一度部員全員を見回した。
「はい。今のは、『ドリー組曲』と違って元気さが特徴の曲ですね。吹き方を上手く変えられている人もいるようです」
子安の総評を聞きつつ、未乃梨は小さな不満が自分の中でわだかまるのを感じていた。
(今日の私、やっぱりなんか気負っててちょっと固い音で吹いちゃってる。課題曲のマーチはこれでいいけど、「ドリー組曲」でこんな音が出ちゃったら……)
未乃梨の中の不満は他にもあった。
フルートパートから指揮台に座る子安を挟んで反対側、舞台でいう上手側の、三番クラリネットやサックスのその後ろの低音楽器が固まって座っている辺りに、コントラバスを手にした千鶴がいないことが、未乃梨にはどうしても引っかかってしまう。
(初心者の一年生はコンクールに出られない決まりだし、仕方ないけど……五月の連合演奏会でも千鶴はちゃんと弾けてたんだし、やっぱり一緒にコンクールに出たかったな)
元気で爽やかな曲調の「スプリング・グリーン・マーチ」でさえ、千鶴のコントラバスがいてほしいと感じる瞬間が、未乃梨には何度かあった。弦を直接指で弾くピッツィカートの粒の立った音や、他の管楽器を柔らかく包む弓で弾いた音の豊かな響きが、どうしても欲しくなってしまう。
不意に、低音パートから声が上がった。
「子安先生、今年のコンクール、弦バスちょっと欲しいっすね」
声を上げたのは金色のユーフォニアムを抱えた、頭にタオルを巻いて黒いTシャツを着た梶本というあの三年生だ。
子安は「うーん」と唸りつつ、穏やかに返答する。
「江崎さん、楽器を始めたばかりですし、いきなりコンクールに出しちゃうとオーバーワークの危険があるんですよねえ。まあ、来年の楽しみにしておきましょう」
子安の返事に残念がる部員たちを見ながら、未乃梨は膝に持ったフルートに目を落とす。
(でも……今日の私が千鶴と一緒に演奏したら……)
未乃梨の中で、昨日の帰りに駅で千鶴に突っかかってしまったことが、まだわだかまっていた。
(続く)




