♯213
千鶴の個人練習を凛々子が見に来ると知らされて、複雑な気持ちで合奏練習に参加する未乃梨。
一方で、千鶴は凛々子から新しい課題を与えられて……?
コントラバスを抱えた、スクールバッグを持っていない千鶴が音楽室を出ていく後ろ姿を、未乃梨は何とも言いにくい不満のような割り切れない気持ちを抱えて見送った。
(まさか、今日の個人練習を凛々子さんに見てもらうなんて……そんなこと、行ってなかったのに)
フルートの調子を合わせる未乃梨の音は、それでも乱れない。ただ、譜面台に置いたチューナーの表示はぶれずに正しい位置を指していても、フルートの音にはざらついたような、少し尖ったアタックが付いてしまっていた。
(今日の私、ちょっと嫌な音を出しちゃってる……「ドリー組曲」は優しい気持ちにならなきゃ吹けそうにないのに)
チューニングを済ませると、未乃梨は今日の合奏で最初にやる課題曲の「スプリング・グリーン・マーチ」のパート譜を開いた。
(先にやる曲、元気な曲のマーチでよかった。切り替えなきゃ)
口を真一文字に結んだ未乃梨の肩を、隣の二番フルートの席に座る二年生の仲谷が軽くつついてきた。仲谷は今日は最初から制服をまともに着るつもりがないらしく、グレーの制服のスカートにブラウスすら羽織らない淡いピンクのTシャツを着ている。
「小阪さん、気合い入ってるね? 今日はその吹き方で行くの?」
「え? 私、何か変でした?」
未乃梨は改めて、仲谷の顔を見た。
「そういうわけじゃないけど、チューニングしてる時、息のスピードが速そうな音してたからさ」
仲谷の左隣に座る、三年生も、「うんうん」と頷く。
「小阪さんのパート、たっかい音多いし、そういう固め方もありかもねえ」
二人の上級生の話に、未乃梨は思わず自分の唇や顎に手を触れた。
(私、知らないうちに、口か顎か腹筋か、どっかに変な力、入れちゃってる……?)
コントラバスを抱えて空き教室に現れた千鶴を見て、机に腰掛けてヴァイオリンを弾いていた凛々子が顔を上げた。制服のリボンタイを外している千鶴を見て、凛々子は「ふむ」と何やら頷く。
「あら、千鶴さん、涼しそうな格好をしているわね。私も真似しちゃおうかしら」
凛々子はヴァイオリンを置いて机から降りると、千鶴のように襟元のリボンタイを外す。制服のブラウスの裾もスカートから出してボタンを全て開けてしまう凛々子に、千鶴は思わず背を向けてコントラバスの準備にかかった。
(凛々子さん、なんて無防備な……?)
コントラバスをケースから出して弓に松脂を当てる千鶴の背中に、「もうこっちを向いてもいいわよ」と凛々子の声が投げかけられた。
千鶴がコントラバスを支えながら振り向くと、凛々子は「どうかしら?」と恥じらいもせずに両腕を後ろに組んで千鶴に笑顔を向けている。
凛々子は、裾を出した制服の半袖のブラウスのボタンをすっかり開けて、へその前あたりで開けたブラウスの裾を結んでいた。鎖骨から鳩尾の下まで大きく開いた襟元からは、薄めの紫のキャミソールに包まれた、千鶴より一回り以上は大きく盛り上がる胸元が顔をのぞかせている。
千鶴は、凛々子の不思議に洒落た制服の着崩しに、あんぐりと口を開けた。
「凛々子さん、その、何て格好を……」
「あら、このキャミなら外に出せるやつよ。この下も見たいの?」
凛々子はいたずらっぽく微笑むと、ヴァイオリンを取って構える。凛々子が鳴らすAの音に、千鶴は慌ててコントラバスのA線の開放弦の音を合わせた。
凛々子がヴァイオリンを顎に挟んでいるのと反対側の右肩の、大きく開けたブラウスの襟元が崩れかけて、薄い紫色のキャミソールの肩紐に重なった水色のストラップが千鶴の目に入る。千鶴はコントラバスの調弦に集中する振りをして、凛々子から目を逸らす。
千鶴が何とかコントラバスの調弦を終えると、凛々子は丁寧に書いた手書きのヘ音記号の五線譜を千鶴に見せた。
「今日はちょっと千鶴さんに挑戦してもらうことがあるわ。ちょっと、このハ長調の音階を弾いてみて。テンポは、四分音符をメトロノームで五〇で」
千鶴は、凛々子がヴァイオリンのケースから出したカード型の電子メトロノームが刻むゆっくりとしたビートを聴きながら、その五線譜を見た。
凛々子が出してきた手書きの五線譜は、四分音符だけでハ長調の音階を上がったり下りたりを繰り返しながら、下はE線の開放弦から、上はG線をコントラバスのネックと胴体の繋ぎ目辺りのポジションで押さえるFまで、かなり広い音域に渡っている。
「結構色んなポジションを押さえなきゃいけない感じですよね、これ?」
「そうよ。発表会でやるヴィヴァルディの曲と関係のある調でもあるし、千鶴さんに挑戦してもらってもいいかと思って、ね」
千鶴は早速、電子メトロノームに合わせてそのハ長調の音階を弾き始めた。ゆっくりと上がっては下がる階段のような音階を鳴らすコントラバスの音が、窓を開けてカーテンを閉めた空き教室の空気を満たしていく。
途中で、G線でAの音を押さえた時に、千鶴は前に個人練習で見つけた現象に出くわした。
G線で弾くAに、弾いていないはずのAの弦が反応して、生き物のように振動を始める。空き教室の空気どころか床や窓枠まで振動させそうなたっぷりと濃さを増した響きが、千鶴の弓の運びに合わせて生まれていく。
凛々子は、千鶴の音に微かに眉を動かした。
(続く)




