♯212
千鶴を避けるように、早過ぎる時間に登校した未乃梨と、学校の近くで音楽のことで凛々子と語らう千鶴。
二人は、どこかすれ違っていって。
未乃梨が紫ヶ丘高校の音楽室に着く頃には、そこには誰もまだいない時間だった。
(夏休みだし、いつもなら授業の始まる時間に来たって誰もいないよね)
机を動かして合奏ができるスペースだけは作ってある、半分ぐらいががらんどうの音楽室で、未乃梨は所在なさげに立ち尽くしたままふうっと息をついた。
だだっ広さを感じる音楽室には、あと少なくとも何十分かは誰も来ない。未乃梨は、さしたる目的もなく音楽室のピアノの前に座る。
(ピアノでも弾いて時間潰そうかな。……そうだ、コンクールでやる曲は元がピアノの曲なんだし)
未乃梨はスクールバッグから「ドリー組曲」の原曲の楽譜を出してピアノの上に置くと、「子守唄」のページを開く。
(赤ちゃんを寝かしつけるように、か……)
できるだけ鍵盤を押す手に力を入れないように、未乃梨は「子守唄」をピアノで弾き始めた。
この曲を通して現れる、音域が広くて左手を大きく適切に動かさねばならない少々厄介なアルペジオの伴奏に苦心しつつ、未乃梨は「子守唄」をピアノで形にしていく。
(寝ている赤ちゃんを静かに見守る感じ、かなあ。私がお母さんになったつもりで演奏すればいい、ってこと……?)
不意に、未乃梨は頭の中に母親になった自分の姿が浮かんだような気がした。そのあやふやなビジョンは、二分あまりの長さの「子守唄」を弾き終えると、霧がそよ風に吹かれるように消えていく。
(私がお母さんになる時って、男の人と結婚した時だよね。……それって、千鶴と一緒にいないってことじゃない)
未乃梨の物思いが、妙なところで行き止まりに当たって消えていく。
(私、何を考えてるんだろう。どうして、「ドリー組曲」をピアノで弾いてる時に千鶴のことなんか)
音楽室の壁の時計は、コンクールメンバーが集まる時間まであと三十分ほどあることを示している。千鶴を避けて早めに来た結果生まれた孤独の時間は、未乃梨にとってあまりに長く苦いものになりそうだった。
紫ヶ丘高校の最寄り駅の改札を出ると、未乃梨は聞き覚えのあるアルトの声に呼び止められた。
「千鶴さん、おはよう。あら、その本早速読んでるのね?」
ヴァイオリンケースを肩に提げた制服姿の凛々子が、目ざとく千鶴を見つけたようだった。
千鶴は電車の中で拾い読みをしていた「西洋音楽の自由時間」を手にしたまま、凛々子に会釈を返す。
「おはようございます。この本、結構面白そうなことが書いてあって。これとか」
「あら。この前カフェで掛かってた、『ます』の五重奏ね」
「あの曲、作曲した人が旅行しに行った先で頼まれて書いたんですね?」
千鶴が読んでいたページは、シューベルトの「ます」五重奏の紹介のページで、作曲の経緯が簡潔かつ軽妙に書かれている。
「そうね。シューベルトが大親友と旅行に行った先でパウムガルトナーっていうお金持ちにお願いされて書いたのよね。シューベルトにとっては楽しい旅だったみたいよ?」
「やっぱり、温泉に入ったりとか、美味しいものを食べたりとか?」
「ふふふ、どうだったのかしらね? シューベルトの旅行先は今は工業地帯だそうだけど」
凛々子は千鶴の話題に微笑みながら、一緒に昇降口をくぐった。上履きに履き替えながら、凛々子は音楽室に向かう千鶴を見送る。
「いつもの空き教室にいるから、コントラバスを持っていらっしゃい」
「分かりました。じゃ、後で」
「待って。楽器を取りに行くの、大変でしょう? 千鶴さんの鞄、預かるわ」
「あ、お願いします」
千鶴は凛々子にスクールバッグを渡すと、音楽室へと足を向けた。
他の部員が音楽室に集まって来る時間になって、未乃梨はピアノから離れると他の部員たちと合奏練習の準備にかかった。コンクールメンバーではない初心者の一年生も、そろそろ音楽室に楽器を取りに来て個人練習を始める時間だった。
音楽室に現れた千鶴の姿を遠目に見て、未乃梨は安堵と不安が絡み合った複雑な気分を抱えた。
ショートテイルに結んだ千鶴の髪は改めて見ると随分と伸びて、女の子らしい印象が強まっている。リボンタイを外した制服のブラウスは昨日と同じだが、ただ一つ違うところが未乃梨にはどうしても引っかかってしまう。
(あれ? 千鶴、スクールバッグを持ってない?)
きょとんと表情が固まった未乃梨に、千鶴が声をかけた。
「未乃梨、おはよう」
「……おはよう。千鶴、バッグはどうしたの?」
昨日のことを話そうにも、周りには他の部員がいてそれは未乃梨にははばかられてしまう。別のことを千鶴に話すのが、未乃梨には精一杯だった。
千鶴は屈託もなく未乃梨に答えた。
「ああ、バッグなら凛々子さんに練習場所に持ってってもらってるんだ。今日、個人練習を見てもらうことになって、学校に来る途中で凛々子さんに会ってね」
「……そう、だよね。発表会の練習、あるんだもんね」
「うん。……また、後でね?」
コントラバスを取りに行く千鶴に未乃梨は無言で頷くと、千鶴の方を見ないようにして、自分のフルートの準備を始めた。
(続く)




