♯209
帰りの駅で、千鶴への思いを弾けさせてしまう未乃梨。千鶴は、その未乃梨にうまく言葉をかけられず……?
(未乃梨が……私とキス……)
改めて告げられる未乃梨からの言葉に、千鶴は返答すら出来なかった。先日のプールで、転びそうになった未乃梨の唇を受けた頬の感触が思い出されて、千鶴の戸惑いは加速していく。
狼狽に近い戸惑いを抱える千鶴の顔を、ベンチの隣に座る未乃梨が見上げるように覗き込む。
「私とじゃ、嫌?」
「それは……、その……」
答えるべき言葉を、千鶴は見つけられなかった。駅のホームに吹きこむ真夏の昼間の熱風が、制服のブラウスやスカート越しに千鶴の肌を蒸し上げて、じっとりとした汗が流れ始める。
「ごめん。まだ、整理つかないっていうか」
「どうして?」
「……あのね。未乃梨、前に私のカノジョになりたい、って言ってたじゃない。その返事、してからでいい、かな」
やっとのことで、千鶴は言葉を絞り出した。千鶴の顔を見上げていた未乃梨の顔が俯いて、千鶴より一回り小さな肩が微かに震える。
「ねえ、千鶴、もしかして、誰か他に、私以外に好きな女の子が、いるの?」
顔を伏せたままの未乃梨に、千鶴は恐る恐る答えることしか出来なかった。
「それは……違うよ。未乃梨、何を――」
「発表会の曲、凛々子さんにも見てもらうんでしょ? 発表会に出るって決めたの、凛々子さんに誘われたから?」
「未乃梨、どうしてそこで凛々子さんが出てくるの? それに、発表会は未乃梨もピアノ伴奏で一緒に出るじゃない」
「それは、そうだけど……でも私、コンクールの間、部活で千鶴と一緒にいられないんだよ? 千鶴と一緒にいたいから、吹奏楽部に誘ったのに?」
ホームに吹き込む真夏の風が、流れを変えて吹き込んできた。チャイムが鳴って、電車の到着を告げる。
俯いたまま、未乃梨がおぼつかない足取りで立ち上がった。
「ちょっと、未乃梨?」
「ごめん! 今日は一人で帰るから、ついてこないで」
苛立つような、泣き出すような声を、未乃梨は俯いたまま千鶴を振り向こうともせずに発してから、開いた電車のドアによろめくように駆け込んでいく。
発車していく電車を、千鶴はベンチから立ち上がる事もできずに見送ることしか、出来なかった。
炎天下の中を重い足取りで帰宅した千鶴を、母親が出迎えた。
「……ただいま」
「あら、早かったわね。お昼、冷し麺でいい?」
先ほどの未乃梨との一件で気が重い千鶴が口を開くより早く、千鶴の腹の虫がぎゅるりと鳴った。
「……うわ。何でまた」
「さっさとシャワー浴びて着替えてらっしゃい。すぐできるからね」
「はーい」
そそくさと二階の部屋に駆け込む千鶴に、母親は呆れたように笑う。
「全く。やっと女の子らしくなってきたと思ったら、この調子の食い気だもの」
風呂場でシャワーを浴びてTシャツとショートパンツの部屋着に着替えた千鶴を、食卓で太めの中華麺をうず高く盛った平皿と濃い茶色のつけ汁で満たされた椀が出迎えた。
千鶴がシャワーから上がる前に、母親は冷や麦を先に食べ始めている。
「母さん、これって――」
「醤油豚骨のつけ麺よ。あんた、冷や麦じゃ足りないでしょ? 父さんは仕事でいないし、あんた用に作っちゃうのもアリかと思ってね」
「凄いの作ったね。……わぁ」
千鶴は食卓に座ると、しっかり温かいつけ汁の匂いに思わず小さく声を上げた。濃厚そうなその色味の濃いつけ汁の匂いに、千鶴の胃袋がもう一度鳴った。
「……頂きます」
気持ちがまだ晴れないまま、手を合わせてから千鶴は平皿の太い麺を箸で手繰りはじめた。豚骨以外に鰹節も利いた、刻んだ葱や煮豚の入ったつけ汁をくぐらせた麺が、止まらずに千鶴の胃袋に収まっていく。
「あ、これ美味しい」
「達也が最近下宿でよく作って食べてるんですって。千鶴も絶対に好きだから作ってやってくれってメールで作り方を送って来てたわ」
「達にぃ料理やるんだ? 後でレシピ教えて」
「はいはい。麺のお代わり、まだあるからね。二玉茹でたのにもうペロリなんだから」
山盛りの麺がもう無くなりかけている千鶴の前の平皿を見て、母親は「あんた、腹も身のうちよ」と、もう一度呆れたように笑った。
すっかり満腹になった千鶴が自室に戻ると、スマホにメッセージの着信が二通届いていた。
千鶴は恐る恐るメッセージのアプリを開いた。片方は未乃梨からで、千鶴の背中に緊張が走る。
――さっきは突っかかって、ごめんね。明日の練習、コンクールメンバーは早めに集まることになったから、朝は先に行ってるね。それじゃ
未乃梨の、妙に何かを取り繕ったような文面に、千鶴は何故か安堵して息をついた。ベッドに仰向けに寝転ぶと、千鶴はつけ麺の収まった腹を撫でながらスマホを見返す。
(でも、未乃梨は私のカノジョになりたいって言ってて、私が返事をする前にキスしたいなんて言い出してて……)
満腹の千鶴に、睡魔が忍び寄ってきた。その睡魔が、千鶴がもう一通のメッセージを読んだ途端に忍び足で立ち去っていく。
(こっちは凛々子さん、か。ええっと)
――練習、 頑張ってる? 私、明日は一日空いてるけれど、良かったら見てあげましょうか?
(……このメッセージ、今日のこともあるし未乃梨に見せられないよね)
千鶴は、早くも消化の始まった胃袋を抱えたまま、ゆっくりと寝返りをした。
(続く)




