♯208
夏休み最初の練習を終えて、経験したことのない種類の疲労を抱える未乃梨。そんな未乃梨の想いを、千鶴は改めて知って……。
その日の吹奏楽部の合奏は、地区大会までとは一段違う密度で幕を閉じた。
ハンカチで汗を拭いながら、未乃梨は椅子に腰掛けたままフルートを膝に持って大きく息をつく。隣に座るフルートの二年生の仲谷が、眼鏡をハンカチで拭うと未乃梨に微笑みかけてきた。
「お疲れ様。今日の小阪さんのソロ、良かったよ」
未乃梨は、合奏中のことを思い出しつつ、内心冷汗をかいた。
「今日、暑いからピッチもどんどん上がってくし、今まで以上にピアニッシモで吹かなきゃいけないしで大変でしたね」
「でも、地区大会のときより良くなりそうじゃない?」
「そうですか? 今日なんか、実質二時間も吹いてないのに」
「って、思うじゃない? 今日の最後の通しが、今日一日でできる限界だよ。小阪さん、今日この後、まだフルート吹ける?」
仲谷に問われて、未乃梨は「え? 別に……」と言いかけて、顎から喉にかけての筋肉や、胸郭の奥の方に経験したことのない種類の重い怠さがうっすらと積もっているのを感じた。
(あれ……? そこまで疲れてるわけじゃないのに、何か……身体の感じが変?)
仲谷は立ち上がると、フルートを分解して掃除を始める。
「ほら、意外と身体にきてるでしょ? 今まで以上にピアニッシモでじっくり吹いたから、疲労は抜かないとね」
「あ、はい……」
未乃梨もゆっくりと椅子から立ち上がって、フルートを片付け始めた。音楽室には初心者の一年生が楽器を片付けに空き教室からそろそろ戻ってきはじめている。
コントラバスを抱えた千鶴が音楽室の戸口に現れたのを見て、未乃梨は片付けを急いだ。
|紫ヶ丘高校の最寄り駅まで、昼過ぎの入道雲が浮かぶ真夏の青空の下を千鶴と未乃梨は歩いた。
降り注ぐ蝉の鳴き声が疲労感を煽っているように思えて、未乃梨は千鶴の手を取る。
駅のホームで、二人は自販機で飲み物を買うとベンチにすとんと腰を落とすように座り込んだ。
「未乃梨、お疲れ様。コンクールの練習、大変だったみたいだね」
「うーん……っていうか、中学の時と全然違う吹き方しなきゃいけなくて、それで疲れてる感じ、かな」
未乃梨はじわじわと疲労が身体に浮かんできているらしく、ベンチで隣に腰掛けている千鶴に身体をそっともたれかけてくる。千鶴は、肩や二の腕に寄りかかる未乃梨の温もりを、おっかなびっくりと受け止めた。
「ちょっと休んでから帰った方がいいみたいだね」
「……うん、そうする」
未乃梨はゆっくりと息をついてから、自販機で買った冷えたミルクティーを口に運ぶ。ひと口飲んでから、未乃梨が千鶴の顔を見上げてきた。
「コンクールでやる『ドリー組曲』、作曲者が赤ちゃんのために書いた曲らしいけど……赤ちゃんを起こさないように吹くって、どうすりゃいいんだか」
「一曲目、そういえば子守唄って曲だっけね。やっぱり、静かに吹くのって、大変?」
「技術的なこともだけど、赤ちゃんの世話なんてしたことないからどうすりゃ良いかも分かんないし……あーあ」
嘆息する未乃梨に、千鶴は少し困ったように笑う。
「赤ちゃんっていきなり泣き出したりするらしいもんねえ。未乃梨、そういえばさ」
「ん、何?」
「そういう話が出たってことは、子安先生ってお子さんいるのかな?」
「うーん、先生も結構なおじさんだし、奥さんとか子供とかいそうな気はするけど」
「練習が午前中で終わったのも、先生のおうちの都合とかあったりして? 奥さん一人じゃ大変だから、とか」
「どうなんだろうね。……奥さん、かあ」
未乃梨は、急に千鶴に向けていた顔を俯かせる。
「未乃梨、どうしたの?」
「あのね。コンクールの地区大会の日、千鶴に家まで送ってもらったじゃない?」
「あー、未乃梨がお父さんに変な格好で出てこないでってキレてたっけ」
「あの後、夕飯の時にね。……うちのお母さんが、千鶴が男の子だったらお婿さんに来てほしいとか言ってて、その……」
「……未乃梨のお父さん、よく黙ってたね? っていうか、私、一応女の子だから、ね?」
千鶴も、気まずくなって未乃梨から視線を逸らす。
「……私、千鶴が女の子でも、千鶴のカノジョになりたいよ?」
「えっと、それは……」
千鶴は言葉を失った。未乃梨の告白に返事をしていない自分に、後ろめたさのようなものはずっとつきまとっている。そして、千鶴にはもう一人、ある意味で未乃梨以上に身近な女の子がいることも、その後ろめたさに拍車をかけていた。
「私、凛々子さんとか、真琴さんとか、先輩たちとかクラスの子とかに負けるつもり、ないから。コンクールと発表会が終わったら、約束、覚えてるよね?」
「本気、なの?」
「うん。……私、千鶴と、……キスしたい」
ホームの外に降り注ぐ真夏の陽射しが、焼け付くような熱を千鶴と未乃梨に届けている。その熱に浮かされたように、未乃梨は千鶴の顔をじっと見上げた。
(続く)




