♯207
休憩を終えて発表会の練習に取り組む千鶴と、コンクールの合奏練習に戻る未乃梨。
二人は、違う相手のことを思い浮かべていて……!?
ペットボトルを捨てて、少し足早に立ち去っていく未乃梨の後ろ姿を、千鶴は「あ、うん。頑張って」とどこか曖昧な言葉で見送った。
(未乃梨、凛々子さんの名前を出した時に、ちょっと微妙な顔してたな……)
千鶴はまだ手つかずのミネラルウォーターのペットボトルを手にしたまま、空き教室に戻っていった。
空き教室に戻ってからコントラバスの調弦をし直すと、千鶴は改めてヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番のコントラバスの楽譜を見直した。
千鶴にとって、この「調和の霊感」第八番で以前から気掛かりな部分があった。
(最初の楽章の真ん中ぐらいに出てくるこのフレーズ、最初と最後に出てくるやつと何かそっくりだよね?)
「調和の霊感」第八番の第一楽章の中ほどには、最初と最後に出てくる付点の付いたスキップで踊るようなリズムを持った、音階を降りていくフレーズとそっくりな部分が現れている。
その二つのフレーズは、最初と最後に出てくるフレーズとは色こそ違っても、同じ形であるように、どうにも千鶴には思えてしまうのだった。
(最初と最後のはA・Gis・Fis・E・D・C・H・A……、途中のはD・Cis・H・A・G・F・E・D……)
千鶴は、楽譜のページを何度も往復しながら、二つのフレーズを見比べる。
(やっぱり、両方とも凛々子さんの言ってた旋律的短音階になんか似てる……? 凛々子さんが楽譜に書いてくれたやつとはちょっと違うけど)
千鶴はその第一楽章の中ほどに出てくるフレーズを、改めてコントラバスで弾いてみた。
旋律的短音階の半音上がった第七音と第六音をそのままに、付点八分音符と十六分音符が絡んだ踊るようなフレーズは、Dから始まって音階を順番に軽快に一オクターブ下のDに降りては元のDへと跳躍して進んでいく。
ただの伴奏とも思えないそのフレーズは、始めゆっくりのテンポで弾き始めた千鶴に不思議な爽快さをもたらした。千鶴の弓を持った右手が、太くて長いコントラバスの弦を押さえる左手が、何の苦も無くスムーズに動いて、繰り返して弾き直すたびにテンポが少しずつ上がっていく。
(このまま何度も繰り返したら、もう本番のテンポで弾けるかも)
千鶴の両腕から余計な力が抜けて、しなやかに軽快にフレーズを紡いでいく。千鶴は、以前に「調和の霊感」第八番の別の楽章を凛々子と合わせた時のことを思い起こしていた。
(バロックの低音は堂々と、だっけね)
まるで目の前にヴァイオリンを弾く凛々子がいるかのように、千鶴はコントラバスを弾いた。しなやかで折り目正しい弓のさばきや、あの緩くウェーブの掛かった長い黒髪の揺れるさまが見えてくるような錯覚すら千鶴は覚ええつつある。千鶴はコントラバスを弾きながら、別のことも考える余裕ができはじめていた。
(凛々子さんのヴァイオリンみたいに、私もコントラバスを弾けたら……?)
音楽室では、「ドリー組曲」の合奏練習が再開していた。顧問の子安が、改めて音楽室にいるコンクールメンバーの吹奏楽部員を見回す。
「さて、皆さん。チューニングが上擦ってる人は今のうちに合わせ直して下さい。終わったら、ちょっと皆さんに試してほしいことがあります」
夏らしい高い気温で楽器のチューニングが狂いかけた部員が何人かいるらしく、音楽室のそこかしこからチューナーを見ながら管の抜き差しを始めた。未乃梨も、休憩前の合奏で明らかにピッチが上擦った自分のフルートを合わせ直す。
部員たちのチューニングが終わって音楽室が静かさを取り戻すと、子安は改めて音楽室にいる部員全員を見回した。
「では、皆さんのチューニングが終わったところで。今年に皆さんが演奏する『ドリー組曲』ですが、元は作曲者が知人夫妻に生まれた赤ちゃんのために作った曲、というのは皆さんももう知っていますね? そこで」
指揮台で汗を拭いながら、子安は続ける。
「地区大会の練習でも言いましたが、改めて、今日はその赤ちゃんに聴かせてあげたい曲、ということを意識してほしいんです」
未乃梨やテューバの蘇我といった一年生の間にどよめきが上がる。一方で、サックスの高森やユーフォニアムの植村、未乃梨の隣に座っている同じフルートの仲谷といった上級生たちは納得したように頷いている。
高森が挙手して、「こんな感じですかね?」とアルトサックスを吹き出した。
銀色に光るメタルのマウスピースを着けた高森のアルトサックスから、ヴィブラートを抑えたピアニッシモで「ドリー組曲」の「子守唄」の旋律が流れてくる。未乃梨は、その音に固唾を飲んだ。
(この曲、「子守唄」、だよね……。赤ちゃんを寝かしつけられる演奏って、今の高森先輩が吹いてるみたいな?)
そして、もうひとつ、未乃梨の脳裏を過ったことがあった。
(この曲、千鶴なら、どんな風に一緒に弾いてくれたのかな)
(続く)




