♯205
コンクールの県大会に向けた練習が始まった紫ヶ丘高校の吹奏楽部。真夏の暑さの中の個人練習で、千鶴は不思議な現象に出くわして……?
八月に入って、紫ヶ丘高校の吹奏楽部のコンクールの県大会に向けた練習が始まった。
練習は合奏が中心のコンクールメンバーと、個人練習が中心の千鶴たち初心者で入部した一年生に別れてやることに決まった。
練習はほとんどが午前中までで、コンクール直近の三日間だけは朝から夕方まで、お盆の間は練習そのものが休みと、練習時間はかなり少ない。そのことについて不満のある部員も一部にいるようだった。
八月最初の練習の日、千鶴と未乃梨はいつものように駅で待ち合わせて学校へと向かった。未乃梨は電車の中で、不安そうに溜息をつく。
「コンクール直前まで、午前中までの練習って、それで大丈夫なのかな」
「うーん……バスケ部とかバレー部の練習ですら真夏は長時間の練習はやらないし、そういうものじゃないかな?」
未乃梨をなだめる千鶴のスクールバッグは、個人練習のみで大した荷物はいらないはずにも関わらず、妙に膨らんでいる。未乃梨は、小首を傾げた。
「千鶴、何か荷物多くない?」
「あ、中身は楽譜と着替えのTシャツと水筒。暑そうだし、一応持って来ようかなって」
「そこまで? 大袈裟じゃない?」
「最初はそう思ったんだけどさ、今日の最高気温、三十六度って予報で言ってて、流石にね」
「うわぁ、本当だ……」
未乃梨はスマホの天気予報を見て、顔を曇らせた。電車の外の陽射しは先日にプールに行った時と同じかそれ以上に強まりそうで、建物や車の影は早くも濃くなりつつある。
音楽室に着くと、高森や植村といった上級生たちが既に楽器を出してウォーミングアップを初めていた。
上級生たちの姿を見て、未乃梨は「あれ?」と目を丸くした。
「先輩たち、その格好は……?」
高森は半袖にショートパンツの学校指定の体操服で、植村は下はグレーの制服のスカートではあるものの、上は明らかに私服のTシャツで裾を結んで臍を出している。
音楽室を見回すと、男女を問わず体操服だったり、制服のパンツやスカートはそのままで上はTシャツなどの涼しそうな服装をしている部員がほとんどで、未乃梨は戸惑った。
その未乃梨に、後ろからフルートを持った二年生の仲谷が声をかけた。
「小阪さんも涼しい格好にしてきたら? せめてリボンタイ取らないとキツいよ」
その仲谷は、制服の半袖のブラウスの裾をスカートの外に出して、ボタンを全部外して私服の青いTシャツの上にアウターのように羽織っていた。Tシャツの裾も当然のようにスカートの外に出していて、その着崩しに未乃梨は絶句した。
「学校でそんな格好……良いんですか?」
「いいんじゃない? 授業じゃないんだし」
未乃梨の隣で、千鶴がさっさと青いリボンタイを外してスカートのポケットに仕舞うと、一番上のボタンを外して恥ずかしげもなく制服のブラウスの裾をスカートの外に出して、コントラバスを出しに準備室に入っていく。未乃梨も、促されたように音楽室の合奏の準備に取り掛かった。
いつもの放課後のように、千鶴はコントラバスを抱えて空き教室へと入った。
(今日は凛々子さんは来れないし、取り敢えずは一人で練習、かな)
千鶴はコントラバスの調弦を済ませると、まずはヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番のイ短調のスケールをゆっくりと復習し始めた。
(ええっと、短調のスケールはバリエーションが三つあって、普通のやつの他に七つ目の音が半音上がる和声的短音階と、それにプラスして六つ目の音も半音上がる旋律的短音階と……)
千鶴はイ短調の音階を、「調和の霊感」の八番に出てくる音域で何度も往復した。
最初はまるで音程が定まらず調子外れになってしまう和声的短音階や旋律的短音階の半音上がる音も、何度か往復するうちにしっかりと落ち着いて、何かの曲のフレーズのように腰が座っていく。
四回目辺りの短音階の往復で、千鶴はふと不思議な感覚に襲われた。
Eの音を弾いた時に、澄んだ響きが残って、空き教室の壁や天井に残っていることが何度かあった。それは、千鶴が弾くコントラバスの音に誰かが同時に別の楽器で音を被せたような、得体のしれない響きだった。
(あれ? 私一人で弾いてるのに、なんで別の誰かがどこかで弾いてるみたいな音がするんだろう?)
千鶴はそのEの音をもう一度弾いて確かめた。一本しか弓で擦っていないはずのコントラバスの弦が、よく見るともう一本振動して響きを生み出している。一番低くて太いEの弦が、千鶴が弾いた一オクターブ上のEと同時に振動して、いつもより豊かな響きを生み出している。
(……あれ? この楽器、こんな風に鳴ったっけ?)
千鶴は慌てて弓を動かす手を止めた。Eの弦の振動が微かに残って、響きが線香の煙のように消えていく。
(何なんだろう、これ?)
千鶴は初めて出くわした奇妙な現象に、コントラバスを身体に立て掛けたまま戸惑った。
(続く)




