♯203
改めて未乃梨の自分に対する想いを知って言葉を失う千鶴。
一方で、千鶴は真琴が自分のよく知る人物と共通する部分があるように思い至って……?
未乃梨が抱きついた千鶴から離れるまでのほんの十秒ほど、千鶴は未乃梨の細い身体の温もりや、荒くなってしまった息づかいを受け止めた。
未乃梨は何とか呼吸を整えると、ゆっくりと千鶴から離れる。
「今日のプール、楽しかった。それじゃ、今度は発表会の練習で、ね」
「……うん。それじゃ、気をつけて帰ってね」
「……千鶴も、ね。バイバイ」
未乃梨は一度千鶴に振り返ってから、小さく手を振ると少しだけ足早に立ち去っていく。一瞬だけ見えた未乃梨の目は、沈みかけた夕陽を映して濡れたように光っていた。
「あ、未乃梨……」
千鶴は未乃梨を追いかけようとして、思い留まった。
(未乃梨のあの呼吸の感じ、息が上がってるのを無理矢理に押さえつけてた。バスケの試合とかで限界が来てるのに無理矢理動いてるみたいな……)
千鶴も、重い足取りで自分の家へと足を進める。日没に差し掛かって暗くなり始めた時間に、未乃梨を家まで送らないことが千鶴に重くのしかかる。それでも、千鶴には今更未乃梨を追うことなどできるはずもなかった。
(今の未乃梨、きっと私のことでぐちゃぐちゃになってる。未乃梨、そういう時の自分を私に見られたくないはずだよね……)
そこまで思いを巡らせた辺りで、千鶴は自分の家のすぐ近くまで来ていることに気づいた。
(私も、周りが見えてないみたい。私のことを好きだっていう未乃梨のことも、一人の女の子として私と一緒にいたいって言ってた凛々子さんのことも、二人の間でどっちつかずになってる自分のことも)
ぼんやりと二人の少女たちのことを考えながら、千鶴は玄関をくぐる。「ただいま」を、意外なほどいつも通りの元気のある声で言えたことは、千鶴にとって予想外だった。
千鶴が風呂から上がって自分の部屋に引っ込むと、机の上のスマホにメッセージの着信を告げるアイコンが浮かんでいた。
「誰だろう……真琴さん!?」
千鶴は思わずスマホを机から取り上げて画面を凝視した。
――今日はお疲れ様ー。またどこか遊びに行こうね。動画はこないだ撮ったやつ。曲はパガニーニのカプリースの二十四番だよ
メッセージには、五分ほどの動画が添付されていた。
恐らくは真琴の通う悠修学園の音楽室かどこかで撮ったものらしい。
動画は、ヴァイオリンを顎に挟んだセーラー服の制服姿の真琴が、談笑していた同じ制服で彼女より顔半分あまり背が低い周りの少女たちに「何か弾いてよ」とせがまれるところから始まった。
真琴は全く気負うことなくヴァイオリンを弾き始めた。その精密機械のようにヴァイオリンの指板を乱れず動く左手も、あまりに堂々とした右手の弓さばきも、千鶴にとっては見たことのない次元のものだ。
そして、その左手と右手から生まれる不敵で挑戦的な響きの、それでいてどこまでも滑らかで自然ですらある、目まぐるしく姿を変えて繰り返される旋律に、千鶴は呆然とならざるを得ない。
(真琴さんの弾いてるこの曲、凄い……でも)
千鶴はそこで、一番身近なヴァイオリン奏者を思い浮かべずにはいられなかった。
(これ、凛々子さんが弾いたら、どうなるんだろう? このメロディ、凛々子さんならどんな風に聴こえるんだろう?)
そんなことを考えながら、千鶴は部屋の本棚に手を伸ばす。千鶴が引っ張り出したのは、以前に凛々子と出かけた時に立ち寄った「ツジモト弦楽器」で買った、「西洋音楽の自由時間」という本だった。
(そもそも、パガニーニって人の作ったカプリースって曲、どんな曲なんだろ? この本に載ってるかな)
ほどなく、パガニーニの「カプリース」に該当するらしいページが見つかった。千鶴は、そのページを食い入るように読んだ。
(パガニーニ作曲「二十四のカプリース」……「夜も眠らぬ大都会から静かな片田舎の村まで神出鬼没に現れて、変幻自在の超絶技巧を引っ提げて聴衆を沸かせたヴァイオリンの名手」……そんな凄まじい人、いたんだ。……「その名手が自身の技巧の結晶とした無伴奏のヴァイオリンのための曲で、中でも最後の二十四番はその旋律の持つイマジネーションから、リストやブラームス、ラフマニノフといった同時代や後世の作曲家の創作意欲を刺激し、数多の名作を生んだ」……そんな曲を高校生でもう弾けるって、真琴さんってやっぱり凄いんだ!?)
千鶴は改めて、真琴の演奏に圧倒されかけて、はたと思考の行き先を変えた。
(真琴さんって、どうしてこの動画を私に送ったんだろう? 自分の演奏を聴いてほしいから? 自分の演奏を自慢したいって訳でもなさそうだし?)
動画の中の真琴は、どこまでもリラックスしてヴァイオリンでパガニーニの「カプリース」を弾いている。その、気負いも緊張も奢りすらも感じない自然な所作に、千鶴はどこかで見覚えがあった。
(やっぱり、真琴さんのヴァイオリン、どっか凛々子さんに似てる……?)
(続く)




