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♯20

凛々子と、未乃梨と、千鶴の三人で始めて合わせる「主よ、人の望みの喜びよ」。

演奏の中で、未乃梨と凛々子は、それぞれの胸の奥の思いに、改めて気付いて……。

「よそのパートと練習? 弦バスと? 良いんじゃない?」

 未乃梨(みのり)は、上級生の言葉に拍子抜けした。

「金曜日に分奏があるのに?」

 仲谷(なかたに)というフルートパートの二年生は慌てた様子もなかった。

「今日は初心者の大野(おおの)さんが家の用事で休みだし、三年の先輩も模試前で休むとか言ってたから、今日は小阪(こさか)さんも好きにしていいよ。本番は五月の終わりだしね」

「いいんですかね、そんなので」

子安(こやす)先生の方針だよ。無理して詰め込むな、ってさ」

 仲谷は手をひらひらと振ると、畳んだ譜面台と自分のフルートを持って練習場所を探しに音楽室を出て行ってしまった。

 なんとなく釈然としないまま、未乃梨は音楽室の戸口にいる千鶴(ちづる)凛々子(りりこ)のところに戻ってきた。

「フルートパートの欠席者が出たんで、今日の練習は私、フリーです」

「じゃ、空いてる教室に行きましょうか。江崎さん、コントラバスを持ってきて」

 凛々子に促されて、未乃梨と千鶴はそれぞれの楽器を持って後に続いた。


 凛々子が入ったのは、生徒出払った二年生の教室だった。未乃梨に「主よ、人の望みの喜びよ」のピアノピースを渡すと、音叉を膝で叩いてヴァイオリンの調弦を合わせていく。

 澄んだ五度の響きを手早く作っていく凛々子に、未乃梨はフルートを組み立てながら見とれそうになった。未乃梨は、凛々子から目を離すと千鶴に目をやった。

 千鶴は千鶴で、凛々子の叩いた音叉の音にコントラバスの弦の一本を合わせている。フルートやヴァイオリンより遥かに低い音が、背の高い千鶴の顔より高い場所にあるペグを少し回すたびに甲高い音叉の音に合わせて整っていくのが、未乃梨ですら不思議に思えた。

 千鶴は調弦を済ませると、未乃梨と凛々子を見回した。

「テンポ、どうします? 未乃梨はゆっくりめの方がいい?」

「いつもどんなテンポでやってるの?」

「こんな感じ、かな」

 未乃梨に聞き返されて、千鶴はコントラバスを弾き出した。

 ややゆっくりめの三拍子で、伴奏の音型にしては主張の強い動きの四分音符が登っては降りていく。千鶴のコントラバスは、未乃梨が思っていたよりずっと整って心地が良い響きを持っていた。

「じゃ、そのテンポで。適当についていくね」

 未乃梨は頷くと、千鶴と凛々子を等分に見た。二人が右手に持っている弓が、同じタイミングでそれぞれの楽器の弦の上に乗って、千鶴が未乃梨の真似をするように、小さく息を吸うような動作をした。

 フルートを構えた未乃梨は、内心驚きながら凛々子と千鶴に着いていった。四分音符で迷わず進んでいく千鶴のコントラバスに、凛々子が泉が湧き出るような三連符の旋律を乗せていく。その凛々子の旋律に、未乃梨はピアノピースの楽譜から拾った音符をフルートで縫い付けるように合わせた。

 凛々子のヴァイオリンは、未乃梨のフルートととはまるで違う性質を持っていた。

(なんて綺麗で、耳に残る音なの……!?)

 まるでフレーズが途切れる様子もなく、決して大きな音を出そうとしているわけでもないのに、凛々子の音は未乃梨の音より明朗に響いた。

 未乃梨は凛々子と千鶴についていきながら、自分が二人に手を引かれているように錯覚し始めていた。

(私、仙道(せんどう)先輩に、ううん、二人にリードされてる……!?)

 誰の音を邪魔するでもないバランスで、響きを保って未乃梨のフルートと完璧に合わせてくる凛々子のヴァイオリンと、二人のフレーズの区切りごとに小さく息を吸うような動作をして、未乃梨のブレスを促す千鶴が、まるで自分の知らないところで深く話し合っていたかのように感じて、未乃梨の胸の奥がひりついてきていた。

(でも、千鶴がブレスしてる……私のために、ってこと!?)

 それでも、未乃梨は千鶴から目が離せなかった。自分のためにブレスの合図を知らせるとき、千鶴の唇が微かに開く。それは、未乃梨が千鶴に自分にだけ見せてくれる、かけがえのないもののように愛おしく思われた。

 一方で、凛々子は未乃梨と千鶴のやり取りを、しっかりと見ていた。

(小阪さん、やっぱり江崎さんのことが……でもね)

 淀みなく流れるバッハの音楽を、千鶴のコントラバスは不足なく支えていた。右手の弓の動作は凛々子に、口元の呼吸の動作は未乃梨に向けて行っているのは明らかだった。

 初見のはずのバッハを、未乃梨はピアノ用に編曲された譜面から自分のパートを即座に割り出して、どこまでも率直に見事に吹いていた。その未乃梨を、管楽器奏者ではない千鶴のブレスの合図が的確に導いている。

(こんな風に合わせる相手を思って弾ける子のことって、私ももっと知りたくなってくるのよね)

 自分と未乃梨のフレーズを支える千鶴は、凛々子には初めてあった頃より遥かに好ましく思われた。自然な体勢でコントラバスを構える、並の男子を優に超えるすらりとした長身にも、気負うことなく凛々子と未乃梨に合わせて弾く前向きな表情にも、伸びかけて演奏のふとした動作のたびに遊ぶように揺れるショートボブの髪にすらも、凛々子は惹かれ始めていた。

(……ごめんなさい、小阪さん。私、あなたの気持ち、分かってきたわ。私、あなたと同じことを思ってるみたい)

 バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」が最後の和音にたどり着いて、凛々子はやや深めに音にヴィブラートを掛けた。それは、未乃梨も同じだった。

 ヴァイオリンの甘やかな音と、フルートの澄んだ音が美しく揺らいで最後の和音の中で溶け合っていく。凛々子と未乃梨は互いを視線の中にとらえたまま、演奏を締めくくった。


(続く)

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