♯199
「ワイルドスラローム」のボートで、千鶴に抱きついてしまう未乃梨。
一方で千鶴は、真琴に問われて改めて自分の中の思いに気付いて……?
「ワイルドスラローム」のボートに乗り込む前から、未乃梨の心はどこかしら浮き立っていた。
(私、やっぱり千鶴と一緒がいい。真琴さんにも、凛々子さんにも、千鶴を取られたくないもん)
ボートを待つ間、千鶴の自分よりずっと高い背丈や、意外にシルエットの細い水着の後ろ姿に未乃梨は目を離さずにはいられなかった。
千鶴の着けている、フリルの付いたトップスや腰回りをスカートのように覆うチュールが揺れるボトムスの水着も、高校に入ってから髪こそ伸びたものの男の子のような印象が残る千鶴をいつも以上に可愛らしく見せている。
(……もっと、千鶴と一緒にいたい。千鶴と、同じ場所で過ごしたい。こんなに可愛い千鶴を、もっと見たい)
高まる未乃梨の気持ちが、乗り場にボートが着いた時の声を明るく高いものにしている。
「千鶴、乗ろ!」
少し安心したような穏やかな顔で未乃梨に頷くと、千鶴は高森や植村たち二年生に声を掛けた。
「おっけ。じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。未乃梨ちゃんと楽しんでね」
見送る真琴の声に、未乃梨は一瞬笑顔が固まりかけて、すぐに気を取り直す。
(別に、真琴さんが千鶴を狙ってるって訳でもないし、今は私が千鶴とボートに乗るんだもん。余計なこと考えたって――)
千鶴が前に、未乃梨が後ろになる形でボートに乗り込むと、未乃梨は考え事を脇に置いてはしゃいだ声を上げた。
「……これ、お昼前に乗ったやつみたいに、揺れるかなあ」
「大丈夫だよ。しっかりつかまっててね」
そんな千鶴の言葉が頼もしくて、未乃梨は千鶴の背中を見つめながら微笑む。
そして、二人を乗せたボートが、レーンをゆっくり流れ出した。
ボートは左右に大きく曲がっては、時折空中に飛び出しそうなほど上下に弾む。いっとき、水面に叩きつけられたボートが巻き上げた大きな水飛沫を浴びて、未乃梨は悲鳴のような歓声を上げた。
「……きゃああああっ!!」
午前中に乗ったスライダーとはまた趣の違う、左右に揺れながら鋭く流れを捌いていくようなボートの動きに、未乃梨は思わず千鶴の腰に両腕を回して、意を決して尋ねる。
「……千鶴、つかまってて、いい?」
「いいよ」
未乃梨は是非もなく千鶴に抱きついた。千鶴の背中の温かさが愛おしくて、全身でそれを感じたくて未乃梨は身体を押し付けた。未乃梨の胸元の膨らみが千鶴の背中にあてがわれて、未乃梨の鼓動が早まっていく。
(……ドキドキしてるの、千鶴に知られちゃうかな)
ふと、千鶴が首をひねって、未乃梨に振り返ろうとした。あまりに近くて見えにくい未乃梨の顔を見るのを諦めて、千鶴はそそくさと前を向き直る。
「あの、未乃梨。もうすぐゴールだからね」
千鶴の顔は明らかに恥じらいを帯びている。薄赤く頬が染まっているのは、プール全体を照らす真夏の陽射しだけのせいではないだろう。
ゴールに着いて、千鶴と未乃梨はスタッフに誘導されてボートを下りた。千鶴は、数回深呼吸をしてから、未乃梨の顔を見据える。
「未乃梨、ボートに乗るの、怖かった?」
「ううん。……ただ、ボートに乗ってる間は千鶴にくっついていたい、って思ったの」
「もう。……びっくりしちゃったよ」
千鶴は恥ずかしそうに、未乃梨の顔から視線を逸らす。しばらくして、ゴール地点にやってきた真琴と植村が、そして織田と高森が、千鶴と未乃梨の周りに集まってきた。
「もう一周する前に、ゴール地点でみんなで画像撮らない?」
防水ケースからスマホを取り出す織田の提案に引っ張られて、千鶴と未乃梨もスマホの画角に連れてこられた。コンクールメンバーの未乃梨と高森と植村をまとめて織田が撮っている時に、真琴がそっと千鶴に近付く。
「千鶴ちゃん、未乃梨ちゃんと楽しめた?」
「あ、……はい」
ボートの中で自分に抱きついてきた未乃梨の身体の感触を思い出して、千鶴は頬を染めた。
「さっきは変なこと言っちゃってごめんね。千鶴ちゃん、未乃梨ちゃんと付き合ってるのかなって、あたしが勝手に思っちゃって」
「その、気にしないで下さい。別に、私も未乃梨のことは嫌いじゃないですし」
「好きは好きでも、友達として好き、ってこと?」
「多分、そうなのかもって。まだ、自分でも分からないですけど」
並の男子より高い背を丸めそうになる千鶴の顔に、真琴が自分の顔を近付けて、声を潜めた。
「……千鶴ちゃん、もしかして、友達としてじゃない好きな相手、いたりするの?」
「それは……」
千鶴は答えようとして、言葉を失った。
(吹奏楽部に入ったのもコントラバスを始めたのも未乃梨がきっかけだけど、……放課後に毎日教えに来てくれたのも、初めての、それも部活以外の本番に誘ってくれたのも、オーケストラの練習の見学に誘ってくれたのも、今日のプールの水着を買うのに付き合ってくれたのだって……)
白地に細い水色のチェックの水着に覆われた、千鶴の胸の鼓動が速まっていく。
(そんな風に私のことを考えてくれる人が私のそばにいて、その人のことを私も当たり前に考えるようになって……)
千鶴が思い浮かべたのは、緩くウェーブの掛かった長い黒髪の、ヴァイオリンを弾くひとつ上の学年の少女だった。
(あれ? ……私、いつの間にか、凛々子さんのこと……?)
(続く)




