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♯186

凛々子にオーケストラに誘われて不安を見せる千鶴。その千鶴に凛々子が聴かせた曲は、千鶴をあっという間に惹き込んで……?

 千鶴(ちづる)凛々子(りりこ)からの申し出に面食らっていた。

「私が、星の宮ユースオーケストラに……って、大丈夫、でしょうか?」

「あら、不安? 実は、発表会にあなたを誘ったのって、そのこともあったのだけれど」

「発表会に? どういうことですか?」

 凛々子は不思議そうな顔をする千鶴に説明を始めた。

「オーケストラに参加してもらう前に、千鶴さんに経験してほしいことがいくつかあるの。一つは、今の千鶴さんにできる曲をしっかり練習してもらって、今の千鶴さんが出せる一番良いコントラバスの音でソロを弾いてもらうこと」

 ソロ、と聞いて千鶴は咄嗟に何度か学校で通している「オンブラ・マイ・フ」を思い浮かべる。

未乃梨(みのり)に伴奏してもらう予定の、あの曲ですよね。あれの練習以外でも、何かあるんですか?」

「ええ。二つ目は、弦楽器だけの合奏の中で千鶴さんにコントラバスを弾いてもらうことよ。管楽器との合奏は吹奏楽部で経験してるから、今度は弦楽器との合奏ね」

「弦楽器同士で合奏? この前の『あさがお園』でやってますけど」

 訝しんだ千鶴は、凛々子の答えに背筋を伸ばす。

「今度は一つのパートに一人じゃなくて、第一ヴァイオリンからコントラバスまで複数人が一緒に弾く合奏よ。弦楽器が大勢で一緒に弾く時は、それなりの約束事みたいなものがあるの」

「約束事って、何ですか?」

「例えば、よ。今まで放課後に私のヴァイオリンと合わせたり、『あさがお園』で五人で合わせた時、あなたはどんなことをしたかしら」

 千鶴はそろそろ溶けそうなコーヒーフロートに浮かぶバニラアイスを一口すくおうとして、スプーンを止めた。

「凛々子さんの弓を見たり、未乃梨がブレスを吸いやすいように一緒に息を吸ったり、とかです」

「そうよね。それが大勢で演奏するオーケストラだったら、どうしなきゃいけないと思う?」

「ええっと、ヴァイオリンやフルート以外の色んなパートを見たり、ブレスの合図をしなきゃいけない、ってことですか?」

 自信なさげに答える千鶴に、凛々子はコーヒーフロートをストローで一口飲んでから答える。

「正解よ。音を聴く以外にも他の弦楽器の弓を見て合わせる経験はしてほしいし、状況によっては指揮者みたいに弦楽器みんながあなたのコントラバスの弓に合わせることだってあり得るわ」

「合奏みんなが私を見て合わせる、……ですか。怖いなぁ」

「その勉強のためにも、発表会のヴィヴァルディとチャイコフスキー、しっかり勉強してほしいってわけ。さて、レッスンみたいな固い話はここまでにして」

 凛々子は自分のスマホで動画サイトを立ち上げると、イヤフォンを繋いで千鶴に渡した。

「ちょっと、千鶴さんに聴いてほしい曲があるの」

(私に聴いてみてほしい曲……何だろう?)

 千鶴は受け取ったイヤフォンを耳に着けると、凛々子は「途中から入るわよ」と断ってから、スマホの画面に映る再生ボタンに触れた。

 浮き上がって盛り上がってから引き下がるトロンボーンに続いて、ヴァイオリンがもう一つ何か音域の違う弦楽器とユニゾンで夢見るような旋律を弾いている。そこに細かな動きで刺繍で模様を縫い込むように伴奏をつけているのは、木管楽器の集団とパートを分けたヴァイオリンだろうか。

 その下を、オーケストラの中で最も低い音域の楽器が堂々とした歩みの旋律を演奏している。

(これってテューバ? ……だけじゃない!?)

 テューバだけかと思われたその低音の旋律は、そのテューバより更にオクターブ低くて力強い響きを纏って、勇ましさすら千鶴に感じさせながら進んでいく。

(これってコントラバス……? コントラバスが主役なの!?)

 そのオーケストラの底でうごめくようなテューバより低い響きが、ヴァイオリンや管楽器が別にしなやかに描き出す旋律を絡めあううちに明るく広がっていくオーケストラの響きを、力強く推し進めていく。

 その流れはトランペットとトロンボーンの輝かしい和音を呼んで、オーケストラの響きの中に石造りの分厚い壁といくつもの尖塔を備えた大きな城が現れたような、千鶴が感じたことのない巨大さを感じさせた。

「凛々子さん、この曲って――」

 そこまで言いかけて、千鶴は言葉を続けるのを止めた。

 巨大な城の広間で甲冑を着けた騎士たちが謁見に参じるような堂々とした響きの中で、先ほど千鶴がテューバだけで演奏していると誤認しそうになった旋律が、今度は全オーケストラが形作る壮大な響きの中で再び現れて、金管楽器の分厚い和音を纏って騎士たちに歓呼される王のような威容を見せて締めくくられた。

 曲の再生が終わったのを確認すると、凛々子は千鶴が言いかけたことに答える。

「これはワーグナーっていう作曲家の、『ニュールンベルグのマイスタージンガー』の前奏曲よ。本条(ほんじょう)先生が、コントラバス奏者にとって宝物の曲の一つだから、千鶴さんに教えてあげて、って言ってたわ。あと」

 凛々子はコーヒーフロートの残りを飲み切ると、千鶴の顔をもう一度見た。

「今年の十一月に、星の宮ユースオーケストラの演奏会があるのだけれど、この『マイスタージンガー』もプログラムに入っているのよね。……千鶴さん、この曲、十一月にオーケストラで弾いてみない?」


(続く)


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