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♯185

買い物を終えた凛々子が千鶴を連れて来たのは、顔馴染みらしいカフェだった。その店内で流れる曲に、千鶴は好奇心を掻き立てられて……?

 凛々子(りりこ)千鶴(ちづる)の手を引いて連れて来たのは、打ちっぱなしのコンクリートの外壁に重そうな金属のドアの、やや殺風景な外見の小さなビルだった。

 ドアの銘板には、「Partita」という千鶴にとって今日何度目に見かけるか分からない、間違いなく英語ではなさそうなアルファベットの単語が彫り込まれている。

「パルティータ、かな?」

「正解よ。さ、入りましょう」

 千鶴が当てずっぽうに読んで正解を引き当てた銘板の掲げられたドアを、凛々子は少しばかり愉快な気持ちでくぐった。


 すっきりと弱めの冷房が掛かる、客の数がまばらな店内で、凛々子と千鶴はテーブルにつくとひと息をついた。

 夏の午後の烈しい陽射しを浴びた二人には、カフェの程よく冷えた空調や、店内に掛かる涼しげな音楽が心地良い。

 二つずつある同じアパレルショップの紙袋や「ツジモト弦楽器」の手提げ袋をテーブルの空いた席にまとめて置くと、凛々子は千鶴にメニューを見せた。

「今日は付き合ってくれてありがとう。好きなの頼んでね」

「あ、ありがとうございます。……ん?」

 千鶴は、思わずメニューをめくる手を止めて店内に小さく掛かるBGMに耳を傾けた。

 軽やかにはずむピアノの音色と、楽しげに遊ぶようないくつかの弦楽器のアンサンブルが、千鶴の耳にすっと馴染むように入ってくる。そのアンサンブルの中に、千鶴が良く知る音が混ざっているような気がして聴き入りそうになってしまう。その音は、弦楽器のアンサンブルの中では一際重く低いのだった。

 千鶴は我に返ったように凛々子にメニューを戻した。

「ごめんなさい。じゃ、私はこっちのコーヒーフロートで」

「こう暑いと、冷たいの欲しくなるわよね。私もそれにしようかしら」

 凛々子はホールスタッフに注文を伝えると、店内に小さく掛かるピアノと弦楽器のアンサンブルが気になる様子の千鶴にそれとなく尋ねる。

「このお店の中で掛かってる曲、気になるかしら?」

「実はこの曲に混ざってる音、もしかして、って思っちゃって」

「あら、何か気付いたの?」

 小首を傾げる凛々子に、千鶴は一度天井の隅のスピーカーを見上げた。

「この曲、コントラバス、入ってます?」

「ご明答。よく気付いたわね」

 凛々子は千鶴に頷くと、意外なことを告げた。

「この曲、もしかしたら、千鶴さんがどこかで聴いてるかもね」

「私が、ですか? クラシック、全然詳しくないですけど」

 今度は、千鶴が首を傾げる番だった。店内に掛かる音楽は、ピアノと弦楽器が速いテンポの三拍子で遊ぶように掛け合っているかと思えば、同じテンポのまま穏やかな楽想でたゆたったりと、せわしなく表情を変えている。

 その三拍子が遊ぶような賑やかさで締めくくられると、今度は千鶴がその場で覚えて歌えそうな、童謡のようですらある可愛らしい旋律が、まず弦楽器だけで、ついで弦楽器に伴奏されたピアノで現れた。

 ピアノの伴奏についている中で一番低い、跳ね回る音は間違いなくコントラバスの弦を直接指ではじくピッツィカートで、千鶴はうっかり無意識でその動作を真似しそうになり、コーヒーフロートを二つ運んできたホールスタッフに「まあ」と微笑された。

 その女性のホールスタッフは凛々子と顔見知りらしく、「お友達といらっしゃったの?」と凛々子と話し込んでいる。

「もしかして、コントラバスを弾かれる方かしら?」

「ええ。高校の後輩で、四月に吹奏楽部でコンバスを初めたのよね?」

 凛々子に話を振られて、千鶴は少しばつの悪そうにショートテイルの髪を結った根元を搔いた。

「あ、でも、まだまだ始めたばっかりで」

「丁度良かったですわ。今お店で掛けてるの、シューベルトの『ます』五重奏ですよ。では、ごゆっくり」

 コーヒーフロート二つを置いて下がっていったホールスタッフの女性が紹介した「ます」五重奏曲は、先ほどの童謡のようですらある旋律が、低音楽器二つの力強い重なりで演奏される箇所に入っていた。

 コーヒーフロートのストローに唇を着けようとした凛々子が、店内に流れる「ます」五重奏曲に耳をそばだてる。

「今旋律弾いているの、チェロとコントラバスね。こういう音楽も、コントラバスにはできるわ」

 凛々子はコーヒーフロートを音を立てずに上品にストローで飲んでから、千鶴に尋ねた。

「ねえ、千鶴さん。こういう音楽も、いつか、やってみない?」

「……ちょっと、興味はあるかも、ですけど。吹奏楽以外でも、もっと弾いてみたいっていうか」

「そう。もし、やってみたいって思うなら、うってつけの場所があるのだけれど?」

 凛々子は、千鶴の目をじっと見た。

「それって、もしかして――」

「そう。私がコンサートミストレスをやってる、星の宮ユースオーケストラ、よ」

 千鶴の目を正面から見据える凛々子の表情から、いたずらっぽい含みが消えていた。


(続く)


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