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♯184

初めて来たツジモト弦楽器に陳列されているコントラバスに興味津々の千鶴。

一方で、凛々子はそんな千鶴にまだまだ話したい事があるようで。

 陳列されているコントラバスを見て回っている千鶴(ちづる)がどこか自慢げな凛々子(りりこ)の様子に、神野(じんの)は困ったように微笑んだ。

「じゃあ、仙道(せんどう)さん、あの子はもう星の宮ユースに誘うつもりなの?」

「もちろんですわ。本人の意思もですし、おうちの事情も許せばですけど」

「あらあら。……また、有坂(ありさか)さんに嫉妬されそうね?」

 凛々子は、神野が出した名前に一瞬だけ小首を傾げると、口元に手をやって小さくぷっと吹き出した。

「同じ多口(たぐち)先生の門下ですけど、私と彼女では向こうが格段に上ですよ? 私が中学の頃にヴァイオリンのレッスンでやってたことを、有坂さんは小学生でやったんですもの」

「謙遜しちゃって。その有坂さんですけど」

 神野が少し声をひそめた。

「……思うところがあるみたいで、今ヴィオラを勉強してるそうですよ。元はといえば多口先生が勧めたらしいですけど」

 凛々子は怪訝な顔をしかけて、神野にくすりと微笑を返す。

「無駄にはなりませんわね。音大に行ったら副科ヴィオラもやらなければいけませんから」

 凛々子はどこまでも楽しそうな様子で、千鶴に視線を戻した。

 千鶴は今度はコントラバスが陳列されている辺りから、凛々子や神野のいる小物類の並んだ棚の近くに足を向けている。小物類の隣には、楽譜類や書籍が納まったややこじんまりとした棚があり、千鶴は今度はそちらに興味を引かれたようだった。


 以前に未乃梨(みのり)と訪れた楽器店の書籍コーナーとは様子の違いそうな「ツジモト弦楽器」の書棚に、千鶴は妙に好奇心が湧いていた。

 そろそろ見慣れてきた英語ではないアルファベットの並びが書かれた背表紙は、海外から輸入した楽譜類だろうか。棚の段に「オーケストラ 総譜」や「独奏曲・ヴァイオリン」という見出しが入れられているのを追いながら、千鶴は「解説書」と書かれた見出しのある低い段にたどり着いた。

 その段では流石に日本語で書かれた書籍がメインではあったものの、作曲家ごとの解説書は知識のある読み手を想定して書かれたちんぷんかんぷんの内容だったり、専門家でなければ知らなそうな人名が山ほど出てきたりと手に取る気になりづらいものばかりで、千鶴は思わず後ずさりをしそうになる。

(なんか、難しそうな本ばっかり……あれ?)

 そんな中で、千鶴は一冊の本の背表紙に視線を吸い寄せられた。

(「西洋音楽の自由時間」……何だろ、この本?)

 その、五百円玉の直径よりやや厚いその本は、クラシック音楽を知名度の高そうなものからグループ分けして章ごとに紹介している解説書で、現役の作曲家や演奏家、評論家といった面々が共著したものらしい。

 曲ごとの解説の最後にはその曲の著名な録音が挙げられていて、演奏している指揮者や演奏家個人またはオーケストラなどの団体や、発売されているレーベルや配信されているアドレスも書かれている。

 書籍全体の監修も兼ねている作曲家の、時折作品を茶化しつつも決して貶めない軽妙な筆致や、ピアニストとしての経験を噛み砕いて平易に書き綴る演奏家の語り口に、全く知識のない千鶴でもその本の解説に引き込まれた。

 ページをめくる千鶴の手が、ふと見覚えのある曲目のページで止まる。

(ヴィヴァルディ作曲協奏曲集「調和の霊感」? 「……こうしてヴェネツィアのピエタ慈善院でかのヴィヴァルディ先生が書き綴った協奏曲のいくつかは、後に遠い北のドイツの音楽家の目に留まることとなった。かのJ・S・バッハが、聖トーマス教会での職務についていたライプツィヒ時代に第十番を四台のチェンバロのための協奏曲として編曲した他……」 え? バッハって、「あさがお園」の本番でやった曲の作曲者の?)

「西洋音楽の自由時間」を立ち読みしている千鶴の背中を細い指先がつついて、聞き覚えのあるアルトの声が千鶴の耳に届いた。

「その本、気に入ったようね?」

「え? あの、……すみません、つい立ち読みしちゃって」

「せっかくだし、その本、買っちゃえば? 千鶴さんには今後必要になるわよ」

「……ええっと」

 千鶴は本を持ったまま、思わずポケットの財布の中身を恐る恐る見た。

(……あ、水着の予算の残りで何とか買えそう?)

 財布をポケットにしまうと、千鶴は「ツジモト弦楽器」の広い店内を見回した。

「……あの、このお店のレジって?」

「こっちの小物の棚の隣よ。神野さん、こっちもお会計お願い」

 二人のやりとりを見ていた神野は、「はーい。承りますね」と、明るい声でレジに回っていった。


「ツジモト弦楽器」を出ると、凛々子は千鶴にスマホの画面を見せた。

「ここ、寄ってかない? 私がよく行くカフェなのだけれど」

 凛々子のスマホに映っているのは、歩いて五分ほどの場所にあるカフェだった。

 千鶴は、少しだけ顔を曇らせる。

「……あの、今日は水着を買う予算しかなくて、残りは本を買っちゃったし」

「私が誘ったんだから、コーヒーぐらい奢るわよ。それに」

 凛々子は再び、自分より一回り大きい千鶴の手を取った。

「ちょっと、休憩がてらお話しない?」

 そう言って微笑む凛々子に、千鶴は「あ、……はい」と弱腰に返事をした。

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