♯177
コンクールのこと、オーケストラのこと、そして発表会のこと。
千鶴と未乃梨にまつわるたくさんのことを思いながら、二人は家路について……。
未乃梨はざわつく気持ちを抑えて、千鶴に聞き返した。
「色んな人から教わるって……誰から?」
「具体的には、この前の演奏会で、コントラバスの先頭で弾いてた波多野さんとか、本条先生とかかな。ほら、あのプロの先生」
「……そう、なんだ」
学校外の人間の名前が挙がったのを聞いて、未乃梨は千鶴にする返事の言葉にすら困った。
(千鶴、いつの間にそこまで私の知らない人と――)
「お手本にしたいプレイヤーがもういるっていうのは良いことだよ。しかもプロの先生に会えたなんてすごいじゃない?」
足踏みを続ける未乃梨の思いをよそに、植村が千鶴に目を丸くして見せた。
「凛々子さんにオーケストラの練習の見学に誘われた時に、その本条先生っていうプロの方と話したんです。使ってるコントラバスも弾かせてもらいました」
「プロの弾いてる弦バス、かあ。何を弾いたの?」
「ベートーヴェンの『第九』です。確か、『歓喜の歌』って言われてるとこ」
今度は高森が千鶴に「ひゅう」と音を出さずに口笛を吹く真似だけをしてみせる。
「それ、年末とかに合唱を入れてやる曲でしょ? 有希、ピアノ伴奏やったことなかったっけ?」
高森に問われて、植村は「そうそう」と顔を小さく縦に振る。
「中学ん時に、習ってるピアノの先生の手伝いで練習の伴奏をやっただけだけどね。あの曲、合唱もオケも低音が美味しいんだよ」
「そうなんですね。……私にも、いつか、弾けるかなあ」
顔を上げる千鶴に、植村は親指を立てるサインを見せた。
「弦バスをやってるんなら、機会があれば挑戦すればいいと思うよ。その前に」
植村は千鶴の隣でうつむきがちな未乃梨に向き直る。
「夏休み明けにやるっていう発表会、しっかり小阪さんと一緒に頑張らなきゃ、ね?」
「そのためにも、まずは親睦を、ってとこだね。小阪さん、プールは楽しもうね」
植村に続いて高森にも名前を呼ばれて、未乃梨は「え!? あの、え!?」と慌てふためいた。
「プールって、私、千鶴と行ったことなくて、その――」
「じゃあ、水着買いに行かなきゃねえ? 江崎さんも一緒にさ」
高森はどこまでも面白そうに、恥ずかしがったり慌てたりする未乃梨の顔を見た。
バスが紫ヶ丘高校に着いて、楽器を音楽室に戻し終える頃には、日はすっかり傾いていた。
顧問の子安の「今日は皆さんのおかげで良い演奏ができたと思います。それでは、県大会の練習が始まるまでゆっくり休んでください」という手短な話の後で、その日は解散となった。
帰りの駅のホームで、「うーん」と伸びをしている、うっすら疲労が浮かぶ未乃梨を千鶴はベンチに座らせようとした。
「……あれ、未乃梨?」
未乃梨が、千鶴の手首を軽く掴んでいた。
「今日のコンクール頑張ったんだから、ご褒美欲しいな」
「ご褒美って?」
「隣、座って」
未乃梨に手を引かれて、千鶴は未乃梨の左隣に座る。その千鶴の右腕にそっと抱きつくように、未乃梨は両腕を回してきた。
千鶴は右腕にまつわる自分より細い腕の感触と、そっと身を寄せてくる未乃梨の身体の重みに、やや困り顔になりつつ未乃梨を受け止めた。
「コンクール、今日はお疲れ様」
「……こういうこと、私以外にさせちゃダメだからね」
「もう。他に、誰かいると思うの?」
苦笑する千鶴の顔を見ずに、未乃梨は千鶴の右肩に頭を預ける。
「ひとり、いるでしょ。凛々子さん」
「……もう。水着、いつ買いに行こうか?」
「……行かない。プールの日になるまで千鶴に見せないから」
「わかった。当日の楽しみにしとくね」
「千鶴も、中学の時の体育の水着とかナシだからね。ちゃんとしたやつ、私にプールで見せて」
わがままに近いことを言い出した未乃梨が千鶴の耳元に唇を寄せて、声をひそめた。
「……あのね。私、千鶴のカノジョになりたい、って前に言ったの、諦めてないから」
「……うん」
「……私、凛々子さんに負けるつもりなんて、ないから、ね」
「未乃梨?」
千鶴が思わずベンチから腰を浮かせかけたところで、駅のホームに電車の到着を告げるチャイムが鳴る。未乃梨が、ベンチから立って千鶴の腕を引いた。
「行こ、千鶴」
電車に乗り込んでからも、二人の家の最寄り駅で降りてからも、未乃梨は取りついた千鶴の右腕を離そうとしなかった。駅を降りてからも、未乃梨の小さなわがままは続いた。
まだ暗くなりきらない駅前の通りを、未乃梨は自分の家の方に千鶴と腕を組んだまま足を進める。
「未乃梨、家まで送って欲しかったの? まだ明るいのに」
「……もう。鈍いんだから」
未乃梨は前を向いたまま頬を小さく膨らませる。千鶴が今までに何度も見たその表情は、いつにもまして可愛らしく千鶴には思えた。
「コンクールで紫ヶ丘を聴いてた人たち、フルートがこんな甘えたさんだって知ったら、びっくりしちゃいそうだね」
「……いいの。私も、千鶴以外には甘えないから」
どこかしら恥ずかしそうな未乃梨の顔が、そろそろ夕闇に溶けようとしていた。
(続く)




