♯170
千鶴と、高森と話してきて整理のついた未乃梨の中で、どうしても浮かぶお互いのこと。
それは、どこかでコンクールの場にいない凛々子のことも思い出さずにはいられなくて……。
千鶴があまり入り込めなかった竜崎商業の演奏が終わって程なくして、隣の客席に未乃梨が戻ってきた。
「お帰り、未乃梨」
「お待たせ。お手洗い、混んでたから戻れなくて」
さっきよりは明るい未乃梨の表情に、千鶴は少し安堵した。
「色んな高校が参加してるんだし、どうしても混んじゃうよね」
「市内の半分ぐらいの高校の吹奏楽部が来てる感じだからね。千鶴もその一人だよ?」
「そう、なんだよね」
千鶴は、未乃梨の横顔を見ながら、何故か別のことを思い浮かべた。
(私も吹奏楽部の一人……それはそうだけど、今、私が教わってるのは……)
未乃梨の色味の明るいリボンを結んだハーフアップに、緩くウェーブの掛かった黒髪の、ヴァイオリンを弾くひとつ年上の少女の姿が浮かび上がって重なる。
(凛々子さん、なんだよね……。ずっと私を親身になって教えてくれて、「あさがお園」の本番とか発表会にも誘ってくれて)
千鶴は、たくさんのことを急に思い出していた。
朝の音楽室の練習で千鶴に自分のフルートと合わせてくれた未乃梨と、千鶴を教えながらヴァイオリンで千鶴のコントラバスの初めての重奏の相手になってくれた凛々子。
どこかに出かける時に繋いだ未乃梨の小さな手と、下校の時に階段で預かった凛々子の手の細長い指を具えた手。
コンクールの本番前に千鶴にほんの短い間抱きついてきた未乃梨の身体の感触と、ワルツのテンポ感を教えるために千鶴に身を預けて一緒にステップを踏んだ凛々子。
この場にいないはずの、凛々子の長い黒髪から微かに漂う甘い香りまで思い出しそうになって、千鶴は話題を変えようとした。
「そういえば、さ。付属高校の演奏、他の高校と全然違ってたよね」
「うん。……千鶴、ああいう演奏、やってみたいって思う?」
未乃梨に問われて、千鶴はすぐ答えた。まだ楽器経験の浅い自分が間を置かずに答えられることに、千鶴は内心で少し驚く。
「うん。無理やり大きい音を出してお客さんに押し付けていくような演奏って、何か違う気がするかなあ」
「他に、どこか千鶴が良いなって思ったよその学校はあった?」
「うーん……ちょっと思いつかないかも」
「気になった演奏者とか、指揮を振ってる先生とか」
「やっぱり、付属の人たちかなあ。指揮も先生じゃなくて生徒だったっぽいし」
考え込んだ千鶴は、脳裏を過ったのが今日のコンクールとは関係ない面々であることを未乃梨に隠していた。
(覚えてる演奏者っていったら、やっぱり、ヴィオラの瑞香さんとか、チェロの智花さんとか、コントラバスの本条先生とか、あとヴァイオリンの凛々子さん――)
千鶴は、先日聴きに行った星の宮ユースオーケストラの舞台に上がっていた弦楽器の面々を思い浮かべずにはいられなかった。
(瑞香さんと智花さんはど素人の私と「あさがお園」の本番に出てくれたし、本条先生なんか私がコントラバスをやってるって言ったら練習の休憩時間に自分の楽器を弾かせてくれたし、凛々子さんは――)
もはや、千鶴にとって凛々子の存在は大きなものになっていた。千鶴のなかで、凛々子は知らないうちに未乃梨と同じぐらい広い場所を占めようとしているのかもしれない。それがどこか後ろめたくて、千鶴は未乃梨から舞台へと視線を移した。
舞台の上では、そろそろ最後の演奏順の高校がセッティングに取り掛かっている。
自分から千鶴が視線を外したことに気付いて、未乃梨は少し先ほどの不安がぶり返しかけて、それをすぐに打ち消した。
(千鶴、今の感じ、どこかで凛々子さんのことを思い出しちゃったのかな。でも)
それでも、未乃梨は先ほど高森と話したことを思い出して、気持ちを揺らさずに踏み留められている。
(部活以外でも教室とか登下校の電車とか、私の方が一緒にいる時間は長いんだもん。今度のプールだって凛々子さんは来ないんだし……でも)
そこで、未乃梨は考えを止めた。止めざるを得なかった。
(……千鶴の弦バスの練習、ずっと凛々子さんが見てて。千鶴が今までにやった本番のうち片方は凛々子さんが一緒で。今度の発表会、私も千鶴と一緒に出るけど、私はフルートじゃなくてピアノの伴奏で――)
未乃梨の肩がぞくりと小さく震える。少しばかり効きすぎのホールの空調のせいではなさそうだ。
(私、やっぱり、千鶴の弦バスと一緒にフルートを吹きたい。来年のコンクール、千鶴と一緒に出たい。そのために、千鶴の練習を凛々子さんに見てもらってるんだから)
未乃梨は、肩の震えがまた来ないように腕を軽く組んだ。それでも、先ほどの寒さが原因ではなさそうな震えが、もう一度戻ってきそうに思えてくる。
(発表会だって、私と千鶴が一緒に演奏するんだもん。今度は、千鶴のピアノ伴奏、頑張んなきゃいけないんだから)
未乃梨はこの場にいない凛々子の姿が浮かびそうになるのを必死で押し留めた。
(続く)




