♯169
ちょっとした千鶴とのすれ違いから、セシリアホールの客席を離れる未乃梨。
ホールの外では、そんな未乃梨に高森が声をかけてきて……?
未乃梨は、高森の声に顔を上げた。
「あ……先輩。どうも」
「さっきの付属高校、凄かったねえ。ああいうアンサンブル、できるようになりたいもんだ」
「高森先輩も、そう思いました?」
未乃梨に問われて、高森は「うんうん」と頷く。
「まず、でかい音を鳴らせばいいって考えに陥ってないし、響きより沢山絡まったメロディを聴かせるように注意を払ってる感じがね。ありゃ、紫ヶ丘の部活のいいお手本になるぞ」
「うちの、お手本……」
「これで、付属にベース、っつか弦バスがいたら、江崎さんにはもっと良い勉強になったと思うんだけどねえ」
「千鶴に……そう、ですよね」
未乃梨は先程までホールの隣に座っていた長身の同級生を思い出して、足元を見るように目を伏せた。
「あれ? どうしたの?」
「……ごめんなさい。さっきまで千鶴と一緒にいたんですけど、ちょっといづらくなって」
うつむいたまま、未乃梨は高森に答える。高森はメッシュ入ったボブの髪をかき上げた。
「私でよかったら、話、聞こうか?」
未乃梨は、やっとのことで顔を上げた。そろそろ次の高校の演奏が始まる時間で、急ぎ足で客席に向かう制服姿がちらほら未乃梨の視界に入ってくる。今から出入り口が閉まる前にホールの中に戻るのは、そろそろ無理な時間に差し掛かっていた。
「あの。実は――」
未乃梨は、言葉を選びながら、高森に話し始めた。
次の高校の演奏が始まる直前になっても、未乃梨は戻って来なかった。
千鶴は、パンフレットと未乃梨の小さなポーチが置かれたままになっている、隣の空いた客席に目を落とす。
(どうしたのかな。……やっぱり、うっかり凛々子さんのことを話して、未乃梨を怒らせちゃった……?)
千鶴は、ショートテイルに結った伸びかけの髪の根元を掻いた。未乃梨に勧められて髪を伸ばし始めたことを思い出して、千鶴は本人のいない場所で気まずさを感じてしまう。コンクールの演奏の前に、未乃梨が自分に抱きついてきたことも、千鶴の気まずさを加速させた。
舞台の上は既に転換が終わっていた。次に演奏するのは、竜崎商業という市立の商業高校だった。青いジャケットに制服のパンツやスカートという衣装は、どこか強豪と呼ばれている清鹿学園を千鶴に思い起こさせた。
竜崎商業の演奏を、千鶴は上の空で聴いた。課題曲に演奏している「マーチ『グランドサミット』」は清鹿学園の亜流のような固くて大きな音で塗り固められていたし、パンフレットを見て確認する気にならなかった、日本人の作曲家によるらしい自由曲もひたすらフォルティシモを叩きつけるような荒い演奏で、思わず耳を塞ぎたくなってしまう。
千鶴は、演奏を聴き流しながらひたすらに隣の席に未乃梨が戻ってくるのを待った。
「ふむふむ。つまり、江崎さんが仙道さんの話をしだしたのが、ちょっと納得がいかないって感じかな?」
「……私、千鶴が私のことを見てくれなくなるのかもって、少し辛くなっちゃって」
「そういうことが、ねえ……」
未乃梨は、恐る恐る高森を見た。演奏を終えて、ヘアピンを外してメッシュの入った髪や耳に着けているピアスが見えるいつもの髪型に戻った高森が、紫ヶ丘高校はおろかセシリアホールの建物内にいるたくさんの高校の吹奏楽部員から明らかに浮いているのが、かえって話しやすいように何故か思えてしまう。
「まあ、大丈夫なんじゃないの?」
まるで気休めのような高森の言葉に、未乃梨は眉をひそめそうになって、その眉を元に戻す。
高森はこう続けた。
「そんなに心配ならさ、今度の仙道さんたちと一緒に出る発表会、練習は江崎さんとずっと一緒にいればいいじゃん? 確か江崎さんの伴奏やるんでしょ?」
「そう、ですけど……」
呆気に取られかける未乃梨の顔を、高森はじっと見た。
「それに、他にも江崎さんと一緒にいられるチャンスはまだまだあるでしょ? 夏休みに瑠衣とか私と一緒にプール行くじゃん? それって江崎さんも誘ってたよね」
「そういえば……」
「コンクールの地区大会が終わったら、夏休みだよ? 楽しい思い出を江崎さんと作れたらいいわけだし。それに」
「それに?」
「仙道さん、純粋に善意から江崎さんを教えに来てるって私は思うけど。どう?」
未乃梨は再びうつむきそうになった。それでも、先程よりはいくばくか自信を取り戻せたように、未乃梨には思えた。
「私、来年のコンクールは絶対に千鶴とコンクールに出ますから。今まで以上に、千鶴に振り向いてもらえるように、頑張ってみます」
「お、ちょっとは元気になってくれたかな?」
「……まだちょっと、自信ないですけど」
やっとのことで笑顔を見せた未乃梨に、高森は頷いた。
「じゃ、そろそろ演奏が終わるからホールに入れるし、江崎さんのところに戻ってあげようか」
「……はい。話、聞いてくれてありがとうございました」
一度頭を下げてから踵を返すと、未乃梨はやや早足でホールの客席へと戻っていく。
(我ながら、お節介とも思ったけどね。……ま、そう簡単に有希にお好み焼きを奢らされる訳にもいかないしね)
高森は、コンクールの演奏の前に植村とした賭けを思い出しながら、未乃梨の後ろ姿を見送った。
(続く)




