♯162
そして、未乃梨たちが心地良く締めくくっていく紫ヶ丘高校の吹奏楽部の自由曲。
そんな未乃梨を舞台袖から見ている千鶴は、凛々子の姿を自分の中から拭えずに……。
千鶴は、舞台袖から垣間見えた未乃梨の演奏中の後ろ姿に感じた凛々子の後ろ姿に戸惑いを隠せなかった。
忍び足で舞台に近い反響板から離れる千鶴に、舞台転換で控えていた他の|紫ヶ丘高校の一年生が小さく落とした声をかけた。
「……江崎さん、どうしたの?」
「……ん、何でもない。あ、もうすぐ紫ヶ丘の出番、終わりだよね?」
「……うん。次の、『キティ・ワルツ』が最後で、演奏が終わったら舞台袖に次の出番の学校が来るからね」
そのその女子生徒のてきぱきとした声に、千鶴は丸まりかけた長身をなんとかしゃんと保った。
(次は、「キティ・ワルツ」……この曲、確か合奏練習を聴きながら先輩と――)
千鶴は、先日の個人練習で、合奏練習が聴こえてくる中で「キティ・ワルツ」に合わせて凛々子と踊った、というか凛々子と一緒にその場で教わったステップを踏んだ時のことを思い出さずにはいられなかった。
(私、未乃梨が合奏練習に参加してる時に、凛々子さんと――)
千鶴は、反響板の向こうの舞台に背を向けたまま、暗い舞台袖の奥で立ち尽くした。
「キティ・ワルツ」が始まって、植村は左隣のテューバパートが自分や三年生の吹くユーフォニアムどころか、最初に旋律を受け持つクラリネットの群や和音で混ざるサックスやホルンとも食い違いを起こしていないことに安堵した。
(ま、蘇我さんも腕が悪いわけじゃないし、「ドリー組曲」はテューバは交代したり片方が休んだりがしょっちゅうだし)
テューバパートは、コンクールで演奏する「ドリー組曲」から抜粋した三曲を通して、よほどのフォルティッシモでもない限り、蘇我か二年生の新木のどちらかが交代で一人で吹く指示を顧問の子安から受けていた。そのせいか、紫ヶ丘高校の吹奏楽部の音はほとんどの学校に比べてはるかに軽やかな、悪く言えば迫力に欠ける音に仕上がっている。
植村は、それでも今日のコンクールは昨年に比べればずっと心地良く演奏出来ていた。
(今日のうちの吹奏楽部、ピアノ伴奏で手伝いに行ってる合唱部が調子いい時みたいに、ばらばらの声が潰れないままちゃんと和音で混ざってるみたいな……そうなると、ね)
指揮者に一番近い位置に座る、未乃梨が他の木管から主旋律を受け継いで吹く姿が植村の目に入る。
(小阪さん、江崎さんも一緒にコンクールに出られたら良かったのにね。弦バスなんて、他の楽器に混ざるためにいる楽器だもん)
未乃梨は、「キティ・ワルツ」を振る子安の指揮の拍にある揺らぎが完全に見えていた。
テンポがわずかに速まったり緩んだりするクラリネットの群から受け渡された旋律を、未乃梨たちが吹くフルートはしっかりと受け取って優雅に踊るように描き出していく。
(子供じゃなくても、可愛いドレスを着せてもらって誰かと踊れたら……そこにたどり着くヒントをくれたのは凛々子さんだけど)
可愛らしく揺らぐワルツの拍子は、乗りにくいどころか未乃梨に踊るイメージを容易に与えてくれた。ドレスの裾を摘みながら、愉しげに誰かと踊るような感覚が、未乃梨のフルートを支えている。それは、他のパートの演奏にも伝わって、「キティ・ワルツ」に一切のぎこちなさを感じさせない。
(ワルツの踊り方、凛々子さんは知ってるのかな。……この曲、千鶴と踊ってみたいかも)
「キティ・ワルツ」が繰り返しに入ってから、未乃梨はますます周りとシンクロして吹けていた。決して吹きすぎてはいけない、フルートにとっては息を保たせづらい弱音の箇所も、息切れをせずに吹けている。
ワルツの最後を締めくくるピアニッシモの全体の和音も、未乃梨は危なげないどころか、いっそ心地良さすら感じながらふらつきかねないはずのフルートの最高音域を吹き仰せた。
子安の指揮がそっと最後の拍をまとめた。
ホールに残るか弱い残響に合わせて、未乃梨はゆっくりとフルートのリッププレートから唇を離す。他の木管や金管も、それぞれのリードやマウスピースからゆっくりと口を離した。
セシリアホールの客席から、ほんの少しの間をおいてそよ風が吹き寄せるように拍手が起こる。それは、野原の草をなびかせる気持ちの良い夏の日向の風のように、じんわりと強まって舞台の上の未乃梨たちに向けられた。
子安が部員全員を立たせてから、客席を向いて一礼する。転換のために部員たちがそれぞれの楽器や楽譜を手に舞台上手へと順次流れていく。
千鶴は、ティンパニを上手にはけさせようと舞台に下手側から入っていった。思った通りの強い照明から目をかばいつつ、キャスターの付いたティンパニを山台から下ろして、上手へと押していく。
(ここで、夏休み明けに私も発表会に乗るんだよね。……ちょっと、緊張するなあ)
ティンパニを押しながら、千鶴は上手の舞台袖へと出ていくフルートを持ったハーフアップの髪の後ろ姿を見留めた。
(未乃梨、お疲れ様……ごめん)
その後ろ姿に、千鶴のよく知る別の後ろ姿が重なる。それは、緩くウェーブのかかった長い黒髪で、ヴァイオリンを手にした姿だった。
(私、どうして凛々子さんのことなんか……?)
戸惑いかけた千鶴は、後ろにいる他の部員の「江崎さん、急いで」という声に慌ててティンパニを押した。
(続く)




