♯160
千鶴を思ってコンクールの舞台で演奏する未乃梨。その演奏を舞台袖で聴きながら、部活以外の場所へと思いを飛翔させる千鶴。
二人はいつしか、それぞれに別のことを思っていて。
「スプリング・グリーン・マーチ」の主部に続く中間部に入ると、未乃梨のフルートがしっかりと響くユーフォニアムやテューバといった低音の管楽器のリズムやサックス群の後打ちに乗って、ソロを伸びやかに歌い始めた。
未乃梨には、自分のソロの伴奏に千鶴のコントラバスがいないことだけが少しだけ寂しい。
(本当に、今日のコンクール、千鶴も一緒に演奏できたら……)
管楽器には真似できない、コントラバスのピッツィカートの輪郭のはっきりとした発音や、たっぷりと響いて自然に減衰して消えていく豊かな余韻を未乃梨は想像しながらソロを吹いていた。
未乃梨には、舞台の上手に座るテューバの新木や蘇我の側に、いないはずのコントラバスを構えた千鶴の姿すら見えそうに思えていた。
セシリアホールの舞台袖に引っ込んで、紫ヶ丘高校の演奏を聴いていた千鶴は、中間部に入ってから聴こえるフルートの伸びやかなソロに「お?」と耳をそばだてた。
(未乃梨、気持ちよく吹いてそうだね)
千鶴は、自分が一緒にコントラバスで未乃梨のフルートのソロに伴奏を付けているような気持ちになりかけて、そのビジョンが不意に消えた。
(ここのピッツィカート、凛々子さんのオーケストラで弾いてた、本条先生だったらどう弾くんだろう? それとも、波多野さんだったら?)
千鶴の思考が、遠くへと飛躍し始めた。
(そういえば、この前の凛々子さんのオーケストラの演奏会、コントラバスの人たちってどんな風に弾いてたっけ?)
千鶴は、星の宮ユースオーケストラの演奏会で、シューベルトの「グレート」の最初の方で、明るく優しげなヴァイオリンの主題を、チェロとコントラバスが脇役のフレーズとは思えないメロディックなピッツィカートの伴奏で支えていたことを思い出した。
その時、コントラバスの席の最前に座って弾いていた本条の気さくで優しそうな表情も、千鶴にはありありと思い出される。
(私、自分以外のコントラバスを弾く人のこと、もっと知ってみたい。本条先生や波多野さんとか、色んな人とコントラバスを弾いてみたいかも)
舞台と舞台袖を隔てる反響板の向こうで演奏している未乃梨たち紫ヶ丘の吹奏楽部と、以前にディアナホールでの演奏会を聴きに行った凛々子や本条が出演した星の宮ユースオーケストラが、千鶴の中で天秤に掛かっている。その天秤は全くの水平を保って、千鶴の興味を同じ重さで惹きつけている。
(私、もっと色んな人と一緒にコントラバスを弾いてみたい。部活でも、今度の発表会でも。……秋にここでやる発表会、未乃梨と一緒に頑張ろう)
意気込む千鶴を他所に、「スプリング・グリーン・マーチ」は中間部の終わりに近付いている。さざ波のように舞うクラリネットやサックスやファゴットが、未乃梨のフルートソロを受け止めて、マーチは主部に返っていく。
木管楽器のやりとりにトランペットを加えて軽快さと華やかさを増したマーチの主部は、再び現れたファンファーレを伴う堂々とした和音で締めくくられた。
数秒ほどの少しの沈黙のあと、未乃梨は少しばかり緊張しながら譜面台の楽譜のページをめくる。
(次は、「ドリー組曲」の「子守歌」……。赤ちゃんを起こさないように、優しい安心する音で)
子安の指揮棒が上がり、クラリネットの二番やサックスが敷く柔らかな和音が舞台の上を満たした。フルートを構えた未乃梨に、ふと中学時代の思い出がよみがえる。
(私にとって優しい人……中学の頃、千鶴が部活で帰りが遅くなった私を家まで送ってくれたっけ。手を引いて、うちのお父さんに男の子と間違えられたのに、千鶴って怒ったり嫌な顔をしたりしなくて――)
未乃梨は、千鶴の大きくて温かな手を思い出しながら、「子守唄」の旋律をフルートで紡ぎ始めた。楽器に送り込む息は、身体の奥から支えるどこまでも静かで落ち着いた速さで流れていく。
未乃梨のフルートは、合奏練習よりはるかに柔らかで穏やかな表情を「子守唄」の旋律に映し出していた。それは、棘のある音になりがちなフルートの高音域に移ってなお、柔らかで穏やかな表情を保っている。
(私、やっぱり千鶴が好き。千鶴の大きくて優しい手が好き。男の子みたいな身長が好き。……優しい音がする、千鶴の弦バスが好き。一生懸命に始めたばっかりの楽器を練習する千鶴が好き)
ユーフォニアムとファゴットだけの低音と、サックスとクラリネットの敷き詰める干したばかりの布団のような和音に包まれて、未乃梨のフルートの旋律は進んだ。その音は、オーボエやクラリネットに旋律を受け渡したあとも、変わることなく沸かさずに温めたミルクのような柔らかな肌触りを生んでいく。
いつしか未乃梨がフルートを吹く時の上体の挙動が、子安の振る指揮棒と同調して両方のテンポの揺らぎが噛み合い始めていた。
まるで、揺れる揺りかごがゆっくり止まっていくようにテンポが落ちて、「子守唄」が最後の和音にたどり着いた。
(続く)




