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♯16

千鶴が凛々子とバッハを合わせていたことを知る未乃梨。それを言えずじまいだった千鶴。

未乃梨の中の千鶴への思いは、ついにゆっくりと溢れて。

 教室に入ってきた人物を見て、千鶴(ちづる)はコントラバスを構えたまま目を丸くしかけた。

 フルートのパート員と練習しているはずの未乃梨(みのり)が、教室の戸口で制服のリボンタイの上から胸元を押さえて立っていた。

「あ、未乃梨――」

「江崎さんのお友達かしら? どうかなさったの?」

 未乃梨の名前を呼びかけた千鶴に代わって、凛々子(りりこ)が問いかけた。

 未乃梨ははっと我に返ると、凛々子の赤いリボンタイに気付いて、頭を下げた。

「お邪魔してごめんなさい。弦バスの音が聴こえたんで、もしかして、吹部の友達が弾いてるのかと思って……あの」

 未乃梨は、凛々子の方を向いたまま目を伏せた。

 凛々子はヴァイオリンを机に置くと、未乃梨の側に近付いて落ち着かせるように声をかけた。

「お邪魔だなんて、とんでもないわ。私がたまたま、江崎さんを見かけて何度かコントラバスの練習に付き合っていただけですもの」

 未乃梨は恐る恐る顔を上げて凛々子を見た。その表情には、不安がこびり付いたままだった。

「そう……なんですか?」

「ええ。吹奏楽部には弦楽器を教えられる人がいないみたいだし、お節介かとも思ったのだけれど、江崎さんの練習を見てあげていたの」

「千鶴、上達が早いなって思ってたんですけど……ヴァイオリンの人に教わってたんですね。……ごめんなさい、いきなり入ってきて」

 未乃梨の声が、少しだけ明るさを取り戻した。何かを思い出した様子で教室の時計を見上げる素振りをすると、未乃梨は凛々子にもう一度軽く頭を下げた。

「あ、そろそろ私もパートの練習に戻らなきゃ。千鶴、邪魔してごめんね。じゃ、また部活の後で」

 未乃梨は教室を出ると、振り返りもせずに走り去っていった。慌てて千鶴が追おうとして、凛々子が止めた。

「江崎さん、あの子に私と練習してるってこと、言ってなかったの?」

「……はい」

「帰りに、ちゃんと話してあげなさいね。あの子、誤解しそうになってたわよ」

「それってどういう……」

「あのね。お休みの日に一緒に遊びに出かけて、似合いそうなお洋服を選んで、一緒にプリントシールを撮るぐらい仲の良い子が、知らない女の子と二人っきりで演奏してるのを見たらどう思うかしら?」

「ええっと……」

 千鶴は言葉を失った。

 中学時代から、未乃梨は千鶴と距離が近かった。特に、帰りが遅くなった日に千鶴が未乃梨を家まで送った日以来、手をつないだり腕を組んだりはしょっちゅうで、千鶴もそれが当たり前のようになっていた。

 凛々子は、小さく溜息をついた。

「もう、江崎さんって結構鈍いのね。ちゃんと、仲直りするのよ?」

「……はい」

 千鶴は、母親に叱られた子供のようにしゅんとして頭を掻いた。


 未乃梨は、落ち着かないまま校門で千鶴を待った。

 空き教室でバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」 を千鶴と合わせている名前も知らない長い黒髪の上級生も、楽器を始めたばかりにしては仕上がりの良い千鶴の演奏も、全部自分の知らないところで進んでいたことに、未乃梨は整理がつかないぐらい戸惑っていた。

 そもそも、吹奏楽部への入部と、コントラバスを千鶴に勧めたのは未乃梨で、その理由ははっきりしていた。

(私、高校でもずっと千鶴と一緒にいたくて、同じ部活に入ったことが嬉しくて、一緒に遊びに行った時とか今朝音楽室で合わせた時もすっごく楽しくて……でも、あのヴァイオリンをやってる上級生と練習してたなんて、知らなくて)

 未乃梨の中で、整理のつかない思いは燻っていた。

 遠くから呼ぶ声がして、未乃梨は伏せていた顔を上げた。

「お待たせ。未乃梨、遅くなってごめん」

「ううん。帰ろ、千鶴」

 未乃梨は、迷わず千鶴と手をつないだ。そのまま、最寄り駅まで何も言わず歩いた。駅のホームでも、未乃梨は千鶴の手を離さなかった。

「あの……未乃梨?」

「千鶴、ごめん。今日はこのままでいて」

 未乃梨は、やっと千鶴の顔を見上げた。千鶴の手を握る手の力が少しだけ強まる。それとは裏腹に、未乃梨の瞳は不安に揺らいでいた。

「うん。……このまま、帰ろうか」


 家の最寄り駅で電車を降りると、千鶴は未乃梨を家の近くまで送ることにした。もう桜も散った春の夕暮れは一段と遅くなって、空にはまだ青みが残っている。傾いた陽射しの中で、千鶴は未乃梨の手を引いて歩いた。先に、千鶴が切り出した。

「未乃梨、ごめんね。仙道(せんどう)先輩に教わってること、言ってなくて」

「仙道、ていう人なんだ。……気にしないで、弦楽器の人に教わった方が良いって、私でも分かるもん」

「市内のなんとかってオーケストラで弾いてるんだって。六月に、本番があるんだってさ」

「……そうなんだ、すごい人なんだね。……ねえ、千鶴」

 未乃梨が、千鶴の手を握ったまま足を止めた。ちょうど車道から見て街路樹の陰になる場所で、未乃梨は改めて千鶴の顔を見上げた。

「明日の朝も、音楽室で合わせるのに付き合って。部活で仙道って先輩といっぱい練習して、いっぱい上手くなって。来年、一緒にコンクールに出て。……あと、この前買ったスカート、私以外の誰かの前で穿かないで。約束よ」

「何それ。最後のだけ何か違わない?」

「千鶴が一番可愛いところ、誰にも見られたくないんだもん。仙道先輩みたいな綺麗な人に千鶴が取られちゃうかもって思ったら、気持ちがぐちゃぐちゃになっちゃう」

 未乃梨は、千鶴に正面から抱きついた。その微かに震える肩に、千鶴は手を置いた。

「もう。こんなところを未乃梨のお父さんに見られたら、また、大騒ぎになっちゃうよ」

「いいの。……千鶴なら、お父さんに怒られてもいい」

 自分の肩口に顔を伏せて抱き付く未乃梨を、千鶴はしばらく支えた。少しずつ沈んでいく夕闇は、二人を街路樹の陰に隠してくれていた。

 往来の車に我に返ったように、未乃梨がゆっくり千鶴から離れた。

「それじゃ、千鶴、また明日ね」

「うん。また、明日」

 夕陽の色か、あるいは別のなにかに染まった頬を隠すように、未乃梨は千鶴に背を向けると、スクールバッグとフルートのケースを担ぎ直してから、足早に去っていった。


(続く)

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