♯155
凛々子から夏祭りに誘われて行く約束をする千鶴に、その話を後で聞かされて妙に意気込んで「行く」と返事をする未乃梨。
そして、吹奏楽コンクールの当日は……。
「オーケストラのメンバーが、ですか?」
千鶴は、凛々子からの申し出に気の抜けた顔をした。
「ええ。といっても、チェロの智花さんと、コントラバスの波多野さんだけど。波多野さんは覚えてるかしら?」
「確か、凛々子さんのオーケストラの本番の後で、楽屋で会ったあの人……?」
千鶴は、凛々子より少し背が低くて三つ編みの、発表会で出演者全員での合奏を持ちかけてきた少女を思い出した。
「そう。彼女、鳳台高校の二年生で、中学で吹奏楽部だったのよ。千鶴さんとまた会いたいって言ってたわ」
「波多野さん、そうだったんですね。私のこと覚えてくれてたの、ちょっと嬉しいかも」
「じゃ、八月の星月夜祭り、行きましょうか。未乃梨さんにも伝えておいてね」
凛々子はやや上機嫌な様子で、スマホを取って予定を打ち込んだ。
(波多野さん、中学でコントラバスを始めたんだ。……練習とか、どんな風にやってきたのかな)
自分より遥かに小柄なその学年がひとつ上のコントラバス奏者が、千鶴は少し気になっていた。
「……っていう訳で、凛々子さんに星月夜祭りに誘われたんだけど、未乃梨もどう? 智花さんとか、波多野さんっていう星の宮のコントラバスの人も来るって」
コンクールの地区大会の朝、千鶴は朝の電車で未乃梨に星月夜祭りの件を話した。未乃梨は「うーん」と少し考え込んでから、「行く! 絶対行く!」と妙に意気込んだ。
「星月夜祭りって、確か夏休みの最後らへんの週よね? その辺りなら部活も休めそうかな? 千鶴の伴奏も何とかなりそうだし? あ、別に凛々子さんも来ることとか、気にしてないからね?」
未乃梨は急にそわそわと電車の窓の外に目をやった。
「じゃあ、行くってことで。プールにお祭りに発表会の練習に、何だか盛り沢山な夏休みになりそうだね」
「……私、入学したときは、吹部に入って三年間練習漬けになるって思ってたのになあ」
不意に、未乃梨の声が落ち着きを取り戻した。
「高校に入ってから、何か不満でもあるの?」
千鶴に問われて、未乃梨は顔を横に振る。
「満足とか不満とかより、……今はいっぱいしたいこと、あるかな」
未乃梨は、もう一度窓の外に目をやった。そろそろ、紫ヶ丘高校の最寄り駅に着く時間だった。
会場のセシリアホールに向かうバスの中では、連合演奏会の時の遠足にでも出かけるような雰囲気はさすがに影を潜めていた。
男子の部員たちもトランプに興じて騒いだりせずに大人しく座っていたし、高森や植村や新木といった上級生もどこか緊張した面持ちでバスのシートに身体を沈めている。
千鶴の隣に座る未乃梨も、今日ばかりはバスの中ではずっとフルートのパート譜に目を通していた。
「やっぱり、緊張する?」
思わず尋ねる千鶴に、未乃梨は軽く笑ってみせる。
「コンクール本番だし、そりゃあね。でも」
そこで未乃梨は言葉を区切った。
「中学の時よりはずっと上手く行きそう、かな。何だかんだで練習の疲れも今朝まで残ってないし、それに」
「それに?」
「高校は千鶴と部活も一緒だしね。……これで、千鶴も一緒に演奏できたら最高なんだけど」
「……今年は流石に無理だよ。来年、だね」
千鶴の言葉に、未乃梨は無言で小さく頷いた。
会場に着くと、部員の乗ったバスにやや遅れて紫ヶ丘高校の吹奏楽部の楽器を積んだトラックがセシリアホールの駐車場に到着した。
千鶴たち部員は早速楽器や譜面台の荷下ろしにかかった。ホールの中で本来は練習室か何かに使われていると思われる広い楽器置き場へとケースに収まった楽器を運び込むと、千鶴はやや効きすぎの部屋の空調に少しだけ身震いをした。
(そういえばここで発表会をやるんだっけ。そっちの本番は九月だけど、こんなに寒いのかな)
楽器置き場には他の学校もいくつか現れていた。明らかに制服ではないジャケットを身に着けている学校も少なくない。
中でも左胸に校章らしいエンブレムを刺繍した黒いジャケットの一団は、周囲の目を引いていた。
「――相変わらずすげーな。清鹿の黒ジャケは」
他の高校の誰かが漏らす声に、千鶴ははっと顔を上げる。
(清鹿学園だっけ、確か吹奏楽の強豪って呼ばれてて、未乃梨が中学の時に同じ部活だった子が行ったっていう)
千鶴は連合演奏会で見かけた清鹿学園を思い出していた。
その時は黒の詰襟の男子や紺のボレロとジャンパースカートの女子の部員が運動部のように顧問に大きな声で返事をし、出番では盛大に鳴らされる剛直な和音や、どこまでも硬く圧力の強い音だけが印象に残って、どんな曲を演奏していたかまでは千鶴はほとんど覚えていない。
妙に緊迫感を漂わせながら楽器置き場で整列して顧問らしき人物の訓示のようなものを聞いている黒いジャケットの集団を遠巻きに見ながら、千鶴は内心で首を傾げていた。
(続く)




