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♯15

未乃梨が聴きつけた、千鶴が見ず知らずの誰かと弾いているバッハ。

その相手は、見たこともない長い黒髪のヴァイオリンの少女で……!

(これ……この残響、やっぱり管楽器の音の残り方じゃない……?)

 未乃梨(みのり)は、バッハが聴こえてくる方へと急いだ。

「主よ、人の望みの喜びよ」を弾いているデュエットのうち、音の低い方の楽器は大きな音でもないのに不思議に穏やかで力強い響きを持っていて、それは吹奏楽部にあるどの管楽器とも音の残り方が違った。

(これ、やっぱり弦バスだ。テューバとかだったら、音を止めた時にこんな風に響きだけ残らないはず……千鶴(ちづる)、誰と一緒に弾いているの?)

 未乃梨の中でざわついた気持ちが強まった。朝に、一緒に音楽室で「スプリング・グリーン・マーチ」を合わせた千鶴が、顔も知らない誰かと曲を合わせているということが、未乃梨にはどうしても気になり始めていた。


 千鶴は、「主よ、人の望みの喜びよ」のコントラバスのパートを弾きながら、それが単純な四分音符の連なりでありながら、時になだらかに登っては降り、時には踏み切って飛び上がるような跳躍を含んだ、もう一つのメロディのように書かれていることに気がついた。

 それは、目の前で凛々子(りりこ)がヴァイオリンで弾いている、泉が湧き出るようなフレーズと組み合わさるように作られていて、互いが互いに支えられるようにして音楽が出来上がっているように、千鶴には何となく感じられた。

(この曲、朝に未乃梨と合わせたマーチとは違うの……?)

「スプリング・グリーン・マーチ」の、ともすれば似たような音の交代に終始して主旋律にひたすらついていくような曲ではないことが、音楽にまだ疎い千鶴にも直感的に見え始めていた。

「主よ、人の望みの喜びよ」の途中で、凛々子の弾く旋律が踊るような揺らぎから合唱を歌うような伸びやかなつながりに曲の表情が変わる箇所があった。そこで、千鶴は閃いたことがあった。

(ここ、私も仙道(せんどう)先輩みたいにもっと音を綺麗に繋げられたら……?)

 千鶴は弓の運びをできる限り音がつながるように弓を持った右腕の力を抜いた。中学生のころ、バスケットボール部の助っ人で感じたことが千鶴の脳裏によみがえる。

(ボールをドリブルするときだって余計な力を抜けば安定してバウンドしてくれるんだ、楽器の弓だってもしかして……!)

 千鶴の弾くコントラバスの音が、豊かな響きを途切れさせることなく繋がっていく。コーラスのハーモニーが整ったときのように、千鶴のコントラバスと凛々子のヴァイオリンが作る響きが溶け合っていく。

(コントラバスって、こんなことができる楽器なんだ。こんな風に音楽を作っていける、すっごい楽器なんだ……!)

 千鶴は、バレーボールでサーブやスパイクが決まった時や、バスケットボールでディフェンスを掻い潜ってシュートを入れた時とは違う、何か穏やかな充足感が身体の奥を満たしていくのを受け止めていた。


 最後の音を千鶴と凛々子が伸ばして、「主よ、人の望みの喜びよ」が終止符にたどり着いた。

 千鶴と凛々子のそれぞれの弓が、最後の音を弾ききって弦からゆっくりと離れていく。二人は、曲が終わった後も、ほんの少しだけ視線を重ねたままだった。

 凛々子は、千鶴の演奏に信じられないものを感じ取っていた。

(江崎さん、自分から演奏の流れを、それも無理なく作ろうとして、成功させた……!?)

 千鶴のコントラバスは、凛々子からすれば粗はいくらでも見つかった。それでも、やや速めのテンポを作って演奏を引っ張ったり、何かアイデアが浮かんでフレーズの流れを滑らかに変えたりと、拙いの一言で済ますには惜しい行動を起こしていた。

 凛々子はヴァイオリンを顎に挟んだまま、先に口を開いた。

「ねえ、江崎さん。今の演奏、楽器を始めたばかりだなんて信じられないぐらい、良かったわよ」

「あ、ありがとうございます」

「こういう風に音楽を引っ張って、合奏で一緒に演奏する人を気持ち良く引張っていける楽器のひとつが、コントラバスなの。こういう曲、興味あったりする?」

 凛々子の言葉に、千鶴はわずかに困ったような顔をした。凛々子は「ごめんなさい、最近吹奏楽部に入ったばかりよね」と、頭を下げた。

 千鶴は凛々子に、慌てて顔を横に振った。

「そんな、とんでもないです。……でも、こういうのって、やれる場所ってあるんですか?」

「あるわよ。いくらでも、ね」

 凛々子は穏やかに微笑んだ。

「私が学校の外でやっているオーケストラもそうだし、江崎さんが入っている吹奏楽部だってそう。あなたがコントラバスで合奏に参加する場所は全部そうよ」

「……知りませんでした」

「これから、たくさん勉強していけばいいわ」

 凛々子がそう頷いた時、「あの、失礼します」と千鶴に聴き覚えのある声がして、からり、と空き教室の引き戸が開く音がした。


 未乃梨は、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」が流れてくる場所を、自分が思うより早く見つけた。

 そこは二年生の教室で、生徒が部活や帰宅で出払った後で練習場所に、千鶴と何者かが使っているらしかった。

 教室の戸の隙間から中を覗いて、未乃梨は息が止まりそうなほど驚いた。

 バッハを弾いていたのは、千鶴で間違いなかった。もう片方は、未乃梨の想像を超えていた。

 見たことのない、上級生らしい緩くウェーブの掛かった長い黒髪の少女が、千鶴のコントラバスに合わせてヴァイオリンを弾いている。二人は、互いの弓の運びを見ながら、何かが通じ合っているようにバッハの音楽を紡ぎ出している。

(千鶴……? 相手は、誰なの……!?)

 未乃梨は思わず自分の制服の胸元を押さえた。千鶴の演奏は、朝の授業前に音楽室で自分のフルートとマーチを合わせた時とは、何かが違っていた。

 千鶴のコントラバスとその長い黒髪の少女のヴァイオリンが合わせている「主よ、人の望みの喜びよ」は、淀みなく流れるどころか、互いの呼吸を確かめ合うように、美しく絡み合っていた。

 演奏が終わって、千鶴がその黒髪の上級生と何かを話し込んでいた。未乃梨の中に芽生えていた、千鶴に向かっている甘くてどこか心を湧き立たせていた気持ちが苦くなってしまいそうで、未乃梨は教室の戸を開けた。

「あの、失礼します」


(続く)

 

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