♯147
男の子のような部分がまだまだ残る千鶴に呆れつつ、しっかりと成長していることを感じる千鶴の両親。一方で、コンクールで演奏する「ドリー組曲」に思いを馳せる未乃梨は……。
未乃梨より一足先に学校を出て、凛々子と駅前で別れた千鶴が帰宅すると、母親の声が出迎えた。
「千鶴、お帰り。降りて来たらちょっと台所手伝ってちょうだい」
「え? 何?」
自室に鞄を置いて着替えてきた千鶴に、母親はおろし金と皮を剥いて半分ほどに切った大根を渡した。
「今日は冷やしうどんよ。大根おろしお願いね」
「あれ? 父さんは?」
「お風呂掃除やってもらったから一番風呂。そろそろ上がるんじゃない?」
「はーい。いっちょ、やりますか」
中学生時代に父と兄の背を追い越して以来、千鶴は家の中の力仕事を任される機会が格段に増えていた。台所でも大根をおろしたり固まった瓶の蓋を開けたりと、男手が要るようなことが千鶴に回ってくることも珍しくない。
さして手間も取らずに、先側の半分ほどの大根をおろし終えそうな千鶴に、母は揚げ油に具材を入れながら注文を取った。
「千鶴、うどんに乗せる天ぷら、何がいい?」
「大葉と茄子。あとかしわ天」
「お兄ちゃんとそっくりになってきたわね。好みも食べる量も」
「乙女でも食べ盛りだもんね。男の子も女の子も関係なしです」
「その調子だとあんたの分はおうどん二玉にしとく? 四玉茹でといたけど」
「大盛りもらっていいの? やったぁ」
千鶴ははしゃぎつつ、おろし終えた大根を脇によけると流しで流水にさらしてあるうどんをザルで水切りして三人分の丼に取り分ける。一回り大きい丼は千鶴が中学生辺りから使っているものだった。
「もう。腹も身のうちよ」
呆れる母の声音には、何だか嬉しそうな響きすら宿っている。その声を背に、千鶴は盛り付けの済んだ丼をテーブルに運んだ。
食事中の話題は、秋の発表会のことで持ち切りだった。
千鶴の父は「お前さんが発表会、ねえ」とうどんをすすりながら感慨深そうに千鶴を見た。
「晩飯になると腹が空いてる日は三杯は食うお前さんがなあ」
「別にいいじゃんか。達にぃだって高校の頃そんだけ食べてたんだし」
「……すまん。かき揚げ食うか?」
「わーい。いっただっきまーす」
小皿に置かれたうどんに乗せる前のかき揚げを父に差し出されて喜ぶ千鶴に、母親は釘を差した。
「発表会でご一緒する人たちに、粗相がないようにね。あんたも年頃なんだから」
「大丈夫だって。ピアノ伴奏に未乃梨も来てくれるしさ」
「まあ。未乃梨ちゃんにも、あとでお礼を言うのよ」
「分かってるって。学校で毎日会うんだからその時に言うよ」
「……女三人寄れば何とやらとは聞くが、二人でも十分だなあ。千鶴もなんだかんだで女の子か」
千鶴と母親のやり取りを目の前で聞きながら、千鶴の父親は黙って大根おろしがしっかりと混ざった冷やしうどんの汁を啜る。妙に大根の辛味が立っているように感じて、千鶴の父はこっそり苦笑いをした。
未乃梨は学校から帰宅して夕飯の後に自室に引っ込むと、何とはなしに今日の合奏で吹いた「ドリー組曲」の原曲のピアノの楽譜を眺めた。
(「ドリー」って、作曲者の知り合いのおうちの赤ちゃんの名前なんだっけね。フォーレって、どんな気持ちでこの曲を書いたのかな)
吹奏楽らしくない響きに仕上がったのは、「ドリー組曲」の最初の「子守唄」だけではなかった。コンクールで演奏する予定なのは他に第二曲の「ミ・ア・ウ」と第四曲の「キティ・ワルツ」だったが、どれ一つ取っても音量や響きを見せつけるよう曲ではなかった。
未乃梨は部屋の外を見た。夏至を過ぎたばかりの日没後の空は、やっと暗くなったとはいえまだ星の姿が見えない。そもそも、コンクールの時期の練習で日没前に学校を出ていることが未乃梨には意外だった。
(ちゃんと練習してるのに、こんなに早く終わって、でも色々音楽のことで考えさせられて……)
合奏のあとで、顧問の子安が言っていたことを未乃梨は思い返した。
――もし仙道さんがいなかったら、私が誰か弦楽器の経験がある方を探そうと思っていたぐらいですよ。それって、今の江崎さんには、コンクールに出ることよりずっと大事なことなんです――
――江崎さんに限らず、私はうちの吹奏楽部員には機会があれば沢山のことを部活の外でも勉強してきてほしいと思っています。それを、部活に持ち帰ってくれたら、こんなに素敵なことはありません――
(子安先生、私達のことを第一に考えてくれてるのは分かるけど、今まで見てきた吹部の顧問と、やっぱり何か違うなあ)
ぼんやりと思いを巡らせる未乃梨を、スマホにメッセージの着信を告げるバイブレーションの音が現実に引き戻した。
メッセージの差出人は、あの桃花高校の織田からだった。
――未乃梨ちゃん、コンクールの練習頑張ってる? こっちは最近うちのサックスが持ち替え楽器をやることになって大騒ぎです。今日が初挑戦だったんだけど、フルートって難しいんだね
未乃梨はメッセージに添付されている画像を見て自分の目を疑った。普段サックスを吹いているらしいセーラージャケットの制服を着た桃花高校の女子生徒が、椅子に寝かせたサックスの横でフルートを吹いている。
その女子生徒の、見るからにリッププレートに下唇を押し付け過ぎたその構えは、音を出すのですらひと苦労だったであろう様子が目に浮かぶ。
未乃梨は困り笑いをしながメッセージを返信した。
――サックスとフルートの持ち替えなんて、大変そうですね。相談ぐらいなら乗れますけど
その未乃梨のメッセージへの返事は、意外に早かった。
(続く)




