♯146
問題なく進むコンクールの合奏練習に、納得しつつも千鶴が参加していないことが小さな不満になっている未乃梨。
合奏のあと、未乃梨は顧問の子安にそれを伝えて……。
合奏練習が終わってすぐ、未乃梨はフルートを膝に置いて小さくため息をついた。
合奏の内容に不満はなかった。むしろ、顧問の子安の指導は、中学時代に未乃梨が体験したものとはまるで違って、それは未乃梨には大きな充実感を与えていた。
コンクールの自由曲で演奏する「ドリー組曲」は、今日までで未乃梨が中学時代に吹奏楽部では体感したことがない音を組み立ててきている。第一曲の「子守唄」からして、未乃梨は体験したことのない音を作っていた。
(「ドリー組曲」の「子守唄」、赤ちゃんを起こさないように、って子安先生は言ってたけど……今日はみんな本当にそういう音だったな。幼稚園でお昼寝の時間の前に先生が弾いてたオルガンみたいな)
未乃梨に幼い頃の記憶すら思い起こさせるほど、子安の指導は部員たちから「ドリー組曲」の作品に迫った演奏を引き出すことに成功しているように、未乃梨には思われた。
そもそも、子安の指導は未乃梨が想像しているより遥かに穏やかで押し付けがましさがない。中学時代の吹奏楽部の顧問が合奏中に時折怒声を上げて失敗したパートを攻撃していたような、暴力的な振る舞いは決してなかった。
それだけに、とある小さな不満が、未乃梨の中に新品のノートにはねたインクの飛沫のようにはっきりと浮かんでいる。
(もし、今日の合奏に、千鶴がいてくれたら。千鶴のコントラバスがあったら、今日の合奏はどんなだったんだろう? 「赤ちゃんを起こさないように」って、千鶴ならどんな風に弦バスを弾いてくれるんだろう)
フルートをケースに仕舞って、椅子や譜面台を片付けながら、未乃梨はそんなことを空想してしまっていた。
(「ドリー組曲」、あんな風に音を作るなら……千鶴の弦バスがいてもいいんじゃないかなあ)
音楽室の片付けを終えて部員が解散してすぐ、未乃梨は子安を呼び止めた。
「あの、子安先生、ちょっといいでしょうか」
「おや、小阪さん。どうしましたか?」
子安は音楽室の外の廊下で、未乃梨に振り向く。千鶴よりずっと背の低い、一見冴えないこの中年の男性教師に、未乃梨は尋ねたいことができてしまっていた。
「あの、子安先生。今日の『ドリー組曲』なんですけど」
「ああ、今日は皆さん、とても良い演奏でした。フルートの皆さんも、とてもデリケートに吹けていましたね」
褒め言葉を惜しまない、中学時代の顧問とは大きく指導方針の違う子安に、未乃梨はどこか安堵した。緊張もためらいすらもなく、未乃梨は思ったことを口に出していた。
「『ドリー組曲』、弦バスがあったらもっと優しい音にまとまると思うんです。……その、初心者の一年生はコンクールに出さないっていう決まりがあるのは知っていますけど、千鶴と一緒に吹きたいって、思っちゃダメでしょうか?」
子安は、「誰か、そう言ってくるかもしれないと思っていましたよ」と穏やかに笑う。
「確かに、『ドリー組曲』はコントラバスがいてくれたら最高でしょうね。私もそう思います。ですが、今の江崎さんを無理にコンクールに出させる訳にはいかないと、私は思うのです」
「それって……どういう……」
未乃梨は、子安のあくまで千鶴を気遣っている言葉遣いが気になった。
子安は、歳の割に多い白髪の混じった頭を掻いた。
「今の江崎さんは、これから楽器や音楽をやっていく上でとても大事な時期だからですよ。確か二年生の仙道さんでしたか、ヴァイオリンを弾ける部活外の生徒に入部してからずっと教わっているようですが」
「はい。私も、千鶴とか凛々子さん……仙道先輩と同じ本番に出ました」
「それなんですよ。江崎さんは今、コントラバスの基礎を弦楽器の専門家に一から教わっている、とても大事な時期なんです。もし仙道さんがいなかったら、私が誰か弦楽器の経験がある方を探そうと思っていたぐらいですよ。それって、今の江崎さんには、コンクールに出ることよりずっと大事なことなんです」
子安はあくまで穏やかに語った。それだけに、未乃梨は「でも」と言わざるを得なかった。
「でも。やっぱり、千鶴にもコンクールの舞台を知ってほしいっていうか」
「それもあなたの言う通りです。だからこそ、江崎さんには今仙道さんに付いて沢山勉強してほしい。確か、またどこか学校外で本番があるそうですね?」
「……はい。ヴァイオリンとかチェロの人が出る発表会です。千鶴のソロの伴奏、私がやります」
ややうつむきがちになる未乃梨に、子安はあくまで穏やかに諭す。
「それは素晴らしいことです。それなら、江崎さんにはますます二学期から他所で勉強してきたことを部活で発揮してほしいですね。……そうだ、来年のコンクール、江崎さんがうちの秘密兵器になったら、ちょっとわくわくしてきませんか?」
子安の問いかけに、未乃梨ははっとして言葉を失った。子安は続けた。
「江崎さんに限らず、私はうちの吹奏楽部員には機会があれば沢山のことを部活の外でも勉強してきてほしいと思っています。それを、部活に持ち帰ってくれたら、こんなに素敵なことはありません。小阪さん、今度江崎さんの伴奏をするというあなたもですよ」
未乃梨は思わず顔を上げた。窓から差し込む陽射しが、廊下の床を黄色く染め始めている。
子安は「ああ、いけません。長話に付き合わせてしまいました」と未乃梨に頭を下げた。
「江崎さんの件は、秋から先の楽しみに取っておきましょう。それでは、気を付けて帰るんですよ」
そう言い残して立ち去る子安の背中を、未乃梨はしばらく立ち尽くして見送った。
(続く)




