♯145
練習の後で、帰る前にコンクールの練習で居残る部員に挨拶をしに行く千鶴。
そして、どこか寂しそうな未乃梨と、何やら企んでいる上級生たちと。
「あ、もうこんな時間」
スマホの時計を見て、千鶴はコントラバスの弓を置いた。
「そろそろ部活も終わりの時間かしら?」
「あ、はい。今日は音楽室でコンクールに出るメンバーが合奏やってるんで、ちょっと楽器片付けてきます」
「行ってらっしゃい。昇降口で待ってるわ」
コントラバスをケースに仕舞うと、千鶴は音楽室にそっと入った。合奏練習はちょうど休憩中らしく、中は緊張の解けた雰囲気が漂っている。
奥の倉庫にコントラバスを返却した千鶴に、ユーフォニアムの植村が「お疲れさん」と声をかけてきた。植村は、ユーフォニアムを床に伏せて、ト音記号とへ音記号が二段に印刷された楽譜を開いていた。
「発表会の練習はどう? 確か『オンブラ・マイ・フ』やるんだっけ」
「ぼちぼち、ってとこです。楽器で弾く前に歌ってから、っていうのと、あと別の曲で短調の変化形みたいのをやってて」
「あー、旋律的とか和声的なんとかってやつね。いい感じに基礎から頑張ってるねえ?」
千鶴は植村が見ている見慣れない二段の楽譜に「あれ?」と小首を傾げた。
「それ、何の楽譜ですか?」
「これはコンクールでやる『ドリー組曲』の原曲。元がピアノの曲で、コンクールに出る面子でピアノが弾ける子はこいつを渡されてるんだよ。あたしとか、フルートの小阪さんとかね」
植村は未乃梨が座っているフルートパートの辺りを親指で指した。
「そうなんですね。実は、秋の発表会、未乃梨にピアノ伴奏をやってもらうことになってて」
「聞いてる。帰る前に声掛けてあげてね。……合奏中、低音の方を見て寂しがってたし」
植村は楽譜を膝に置くと、声を潜めて千鶴を茶化した。
「わかりました。それじゃ、お先に」
「うん。そっちも練習頑張ってね」
千鶴を見送ると、植村は「やれやれ」と肩をすくめた。
「今度のコンクール、弦バス欲しいよねえ。うちらとしては」
ユーフォニアムパートの近くに座っている新木が、「だよなあ」と頷く。
「『ドリー組曲』、テューバだけで支える曲じゃねえよな」
新木の隣でテューバを抱えて気になる箇所をさらっていた蘇我が顔をしかめかけて、植村に睨まれるとその表情を慌てて引っ込める。
植村は前下がりのボブの髪を掻き上げると、「うーん」と伸びをした。
「仕方ないっしょ。高校から楽器始めた子はコンクールに出さない決まりだし、急いで詰め込んでも覚えることなんてたかが知れてるしさ」
「そういや江崎さん、高森と同じクラスでヴァイオリンやってるっていう子に教わってるんだっけ?」
「そうそう。あんな超絶美人に教わってたら、小阪さんも合奏中気が気じゃなかったりしてね」
怪訝な顔をする新木をよそに、植村はフルートパートの方を見た。新木のような男子より背の高い千鶴が、顔ひとつ分背の低い未乃梨と何やら話しているのが妙に微笑ましい。
「……ま、詮索は野暮ってやつだね」
植村は再び、膝の上に置いた「ドリー組曲」の楽譜に目を落とした。
休憩時間中もフルートをさらっていた未乃梨に、千鶴はそっと話しかけた。
「お疲れ様。コンクールの練習、頑張ってね」
「あ、千鶴。ありがと」
未乃梨は楽譜から顔を上げると、何故か少し恥ずかしそうに応える。
「発表会の練習、はかどってる?」
「うん。凛々子さんと色々基礎からやってる感じ」
「そうなんだ。……そっちも、頑張ってね」
未乃梨はフルートを持ったまま席を立つと、音楽室のドアまで千鶴を見送る。
「それじゃ、帰りは気をつけて。また明日ね」
「うん。明日の朝も音楽室に来るでしょ?」
「そのつもり。またメッセ送るね」
音楽室の戸口から、未乃梨は千鶴の後ろ姿に手を振った。その様子を見た植村が、クラリネットと何やら打ち合わせてからユーフォニアムの前の席にもどってきた、サックスの高森に耳打ちをする。
「……あの二人、ホンットに仲良いよねえ?」
「……ま、我々としては見守るのもやぶさかではないというか、ね」
高森はメッシュを入れた髪に隠れたピアスに手をやってから、植村に耳打ちをした。
「……ところで、祐希婆さんや。夏休みはおヒマかね?」
「……どうしたね、玲婆さんや」
「……いや、ちょいとその老婆心ってやつよ。祐希婆さん、乗るかね?」
「……あたし、面白そうな話は乗る主義なんだよね」
二人は歳に不相応なおどけ方をしつつ、音楽室の戸口から戻ってきた未乃梨を見守った。
昇降口で千鶴を待ちながら、凛々子は手で顔をあおいだ。暑さを増すばかりの時節は夏至を過ぎて、これに加えてそろそろ梅雨入りも控えたこのころは下校する頃には西陽と湿気で蒸し暑さも感じさせられている。
「凛々子さん、お待たせしました」
その凛々子に、爽やかな声が向けられた。音楽室にコントラバスを仕舞ってきた千鶴が昇降口まで来ていた。
「それじゃ、帰りましょうか」
千鶴の姿を見て、何となく自分の頬が緩んだのを凛々子は感じていた。放課後に自分が見ている千鶴のコントラバスの練習は、一歩ずつ確かに進んでいる。それが、凛々子には妙に嬉しいのだった。
「それにしても、暑いわね。千鶴さんみたいに結ってくれば良かったかしら」
緩くウェーブの掛かった長い髪を掻き上げる凛々子に、千鶴は「大変ですよね、長いと」と笑う。
「私も最近伸ばしてますけど、ちょっとシャンプーに時間がかかるようになっちゃって」
「まあ。それじゃ、私の苦労を知ってもらうためにも、千鶴さんには最低でも背中まで髪を伸ばしてもらわなきゃ、ね」
横目で自分を見上げてくる凛々子に、千鶴は「あ、いや、その」としどろもどろに答える。
「でも、私なんかがロングにしても、似合うかなあ」
「あら。私はロングヘアの千鶴さん、見てみたいけれど?」
困惑する千鶴を面白がるように、凛々子はくすくすと笑った。
(続く)




