♯142
コンクールに向けた合奏で妙な違和感を感じる未乃梨と、改めて発表会で弾く「オンブラ・マイ・フ」を歌うように凛々子に教わる千鶴。
二人は基礎的なことで何かが引っ掛かるようで?
その日の合奏練習は、ある意味ではつつがなく進んだ。
最初に練習した、コンクールの課題曲で五月の連合演奏会でも演奏した「スプリング・グリーン・マーチ」は、初心者の一年生がいない分、大きな事故もなく通った。それでも、未乃梨には妙なやりづらさが残っている。
未乃梨は、木管楽器だけの分奏や全体合奏で散々通したはずの「スプリング・グリーン・マーチ」が、妙に周りと合わせづらいように感じていた。
(あれ? この曲、指揮をずっと見てないと合わない曲だったっけ?)
最初の方の、クラリネットからフルートへ、フルートからサックスへ、サックスからオーボエへ、と主旋律が受け渡される部分で、どうにもメロディを吹く楽器が切り替わるたびに、テンポ感が細かいところで顧問の子安が振る指揮棒と食い違っている気がする。
クラリネットから主旋律を未乃梨たちフルートパートが引き継ぐと、僅かにテンポ感が急いでしまっているように思えるし、後続のサックスやオーボエは妙に間延びしてしまって、ホルンやユーフォニアムやテューバといった楽器と明らかに噛み合わないことすらあった。
(この曲、連合演奏会じゃこんな食い違いはなかったはず……?)
細かいとはいえ、初歩的なミスに、未乃梨は少しずつ焦りのようなものを感じ始めた。
(前に合奏でやった時は、こんな違和感はなかったのに……私がおかしいの?)
周りをよく聴くと、ごく僅かに自分たちの吹くフルートがやや急ぎ気味のようではあるし、クラリネットやオーボエといった他のリードがある木管楽器が遅れたり間延びしたりしているようにも感じられた。他のパートの上級生やパートリーダーも違和感に気づいた者がいるらしく、サックスの高森などは他の木管楽器を時々見渡している。
(おかしい……でも、どうして?)
中学時代は気付いたとしても気にも留めなかったであろう違和感に、未乃梨はどうにも落ち着かなくなっていた。
未乃梨が音楽室で内心首を傾げながら合奏練習に参加している頃、千鶴は凛々子に発表会の曲の練習を見てもらっていた。
「はい、じゃ、もう一度歌ってみましょうか。一、二、三」
いつぞやとは違う、凛々子のイタリア語でのカウントの後で千鶴は「オンブラ・マイ・フ」を歌った。
千鶴が最初に歌った時は、油断してブレスを取りそこねて息切れしそうになり、二度目に歌った時には歌詞の発音を噛んでフレーズが崩れかけた。千鶴は、リボンで結った髪を掻いてうつむいた。
「……あの、すみません」
「気にしないで。練習で山ほど失敗するのって大事なことよ。ただ、歌ってみて失敗しやすい場所は楽器で弾いた時にミスをしやすい場所でもあるから、ちょっと気にかけておいてね」
凛々子はそう言うと、自分のヴァイオリンを手にした。
「実は、弦楽器の演奏にもブレスって大事なの。もし、ブレスを取らなかったら、私でもこんなミスをする危険があるのね」
そう言うと、凛々子は「オンブラ・マイ・フ」の旋律を弾いてみせた。全くブレスを取らずに始めた「オンブラ・マイ・フ」は、ヴァイオリンの弓が弦を擦る幅や速度がおぼつかずにちぐはぐで、音程が合っているのに千鶴にも妙に不格好に聴こえる。
「凛々子さんでも、そうなっちゃうってことなんですね」
「そう。だから、メロディを歌ってるイメージを持って楽器で弾いてほしいわけ。ヴァイオリンより弓が短いコントラバスなら尚更、ね」
「コントラバスの弓、ヴァイオリンとそう変わらない長さじゃないですか?」
怪訝な顔をした千鶴に、凛々子は「って、思うでしょ?」と椅子に座らせるように立て掛けたコントラバスに、自分のヴァイオリンを持って近付くと、二つの楽器の大きさの違いが分かるように千鶴に見せた。
「ヴァイオリンの弦は指で押さえない開放弦でも、振動する長さは三十三センチってとこかしら。でも、コントラバスはその三倍以上、一メートルよりちょっと長いのよ」
「ええっと、ていうことは……弓も、本当は三倍ぐらい長くないとダメってことですか?」
千鶴は、物干し竿ぐらいの長さの弓でコントラバスを弾くことを想像して面食らった。凛々子は、その千鶴の表情を見て頷く。
「そう。だから、コントラバスを弾く時って、本来は足りない長さの弓で弾かなきゃいけないかも、っていう感覚もいるわね。あと」
凛々子はヴァイオリンを蓋が開いたままのケースの中に置くと、教室の机に腰掛けた。
「歌ってるときの感覚を身に着けた上で楽器で弾くっていうことは、実はピアノ伴奏と合わせて弾く時に大事な感覚だし、オーケストラでも吹奏楽でも、他の楽器と合奏をする時に必要になってくるわ」
凛々子は机に腰掛けたまま、教室からは見えない音楽室の方に視線を向けた。遠くから聴こえる、千鶴も連合演奏会で参加した「スプリング・グリーン・マーチ」が遠くから、妙なぎこちなさを持って聴こえる。
「そういう基本的な感覚を、一度合奏を経験したあとでもう一度千鶴さんに改めて勉強してほしいわけ。それが出来たら、……本条先生みたいにコントラバスを弾くことだって、夢じゃないわよ」
そう言って微笑む凛々子に、千鶴は背筋を正した。
(あれ? もしかして凛々子さん、大事なことを私に教えようとしてる?)
(続く)




