♯140
星の宮ユースオーケストラの演奏会の後で凛々子他の顔見知りの面々に挨拶に行った千鶴と未乃梨は、星の宮の団員でコントラバスの担当だという波多野と出会う。
波多野の申し出に千鶴は驚いて……?
「発表会でもう一曲、ですか?」
千鶴は、波多野からの申し出に流石に驚いた。ソロで弾く「オンブラ・マイ・フ」と、合奏でやるヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番に加えてもう一曲、というのは、千鶴には少なからず心配だった。
「ああ、心配しなくて大丈夫ですよ? そこまで難しい曲はやらないって話らしいですし」
波多野の後に、凛々子が続ける。
「千鶴さんが参加してくれるなら、コントラバスは最低でも二人入るし、やりがいもありそうね?」
「良いかも。江崎さん、是非やりましょうよ?」
にこやかに笑う波多野に、千鶴は助けを求めるように未乃梨と凛々子を見た。
「ええっと……どうしよう」
「もう。吹部でも普通に合奏に参加してるし、『あさがお園』でも当たり前に弾いてたじゃない」
呆れる未乃梨の一方で、凛々子が励ますように相槌を打つ。
「また、私が教えるわ。それに、今回は波多野さんに加えて本条先生もいるしね。ですよね、本条先生?」
片目をつむってみせる凛々子に、本条は「困ったなあ」と笑う。
「初心者を教えるのは始めてじゃないけれど、こいつは大変そうだね」
「あら、天下の本条先生が?」
不思議そうな顔をする凛々子に、本条は軽く腕組みをした。
「江崎さんは心配いらないけど、私が発表会で吉浦先生にどやされないか心配でね。学生の頃はしょっちゅう叱られたもんさ」
「そんな、プロの先生なのに?」
「だから、だよ。私もまだまだ道半ば、ってね」
小さく肩をすくめて笑う本条に、千鶴も、凛々子や未乃梨も、波多野や智花や瑞香も、つられて笑った。
ディアナホールを出る頃には、未乃梨の表情はすっかり明るくなっていた。
帰りの電車の中で、未乃梨はむくれてみせた。
「千鶴、ユースオーケストラの人たちからも大人気だったね? 中学の時みたい」
未乃梨の表情からは陰りが消えていた。千鶴から見ても、未乃梨はいつもの可愛らしさを取り戻していた。
「発表会、今まで以上に頑張んなきゃだけどね。もう一曲、増えるみたいだし」
「来年は千鶴もコンクールに出るんだから、しっかり練習してきてね」
「うん、頑張る。そういえば」
千鶴は、ふと思い出したことがあった。
「期末テストが終わったら、いよいよコンクールだよね?」
「『ドリー組曲』、千鶴と一緒に演奏したかったな。あの曲、弦バスがいたらもっと素敵なのに」
残念がる未乃梨に、千鶴は困ったように笑う。
「高校で楽器を始めたばっかりの私が出るわけにもいかないでしょ? 『あさがお園』は凛々子さんとかにいっぱいサポートしてもらったから演奏になったんだと思うし」
「……もう、他の女の子の名前、出すの禁止!」
「あ、……ごめん」
電車はそろそろ二人の家の最寄り駅に近付いている。未乃梨が、千鶴の腕にするりと取り付いてきた。
「じゃ、このまま私の家まで送って」
「え、ちょっと未乃梨? ……もう」
困り顔になりかけた千鶴の腕を引っ張りながら、未乃梨はホームに着いた電車を降りると改札へと向かった。駅の外はやっと傾いた夕陽で色付きつつあった。
未乃梨は千鶴と腕を組んで歩きながら、その千鶴の顔を見上げる。自分より背の高い千鶴を間近で見上げるこの場所は、ほとんど未乃梨だけのものだった。
「星の宮の演奏会、凄かったね。なんか、吹奏楽と全然違ってて」
「私も、いつかああいう曲を弾けるように、なれるかな」
「……千鶴、オーケストラに興味があるの?」
言い淀んだ未乃梨に、千鶴は「……うん、まあ」と言葉を選ぶように答える。
「やっぱり、コントラバスと同じ弦楽器同士で演奏してみたいって、思っちゃうのはあるかな。吹奏楽部に不満があるわけじゃないけど」
千鶴の表情に浮かぶ思案の様子に、未乃梨は明るく振る舞った。
「やってみれば良いんじゃない? ほら、高森先輩だって、部活とバンドか何か両方やってるんだし」
「発表会のあとで、凛々子さんとかに相談してみようかなぁ。あんまり自信ないけど」
「大丈夫よ。……私、千鶴のカッコいいとこ、もっと見たいな」
未乃梨が、千鶴の腕に取り付いたまま更にくっついてきた。
「もう。未乃梨、お父さんに見られたらどうするの?」
「大丈夫。女の子同士なら、お父さん何にも言わないし」
そろそろ、未乃梨の家の近くまで来ていた。未乃梨は千鶴の腕にすがったまま、横から千鶴の顔を見上げる。
「送ってくれてありがと。……ねえ、千鶴」
「ん、どうしたの?」
未乃梨は、千鶴を歩道に植えられた街路樹の影に引っ張った。
「最後に。今日の千鶴の服、可愛いから撮らせて」
「あ、うん」
未乃梨は千鶴に身を寄せたまま、スマホで自撮りを二枚ほど撮った。その後で、未乃梨は千鶴から腕を解くと、もう一度、今度は正面から千鶴の顔を見上げる。
「私、千鶴のカノジョになるの、諦めないからね」
そう告げると、未乃梨は一歩踏み出して千鶴の腰に手を回して、 そっと抱きついた。
「あの……未乃梨?」
「いいでしょ。誰も見てないもの……それじゃ、また学校で、ね」
未乃梨は千鶴から両腕を解くと、手を振って離れていった。
「あ、未乃梨……またね」
可愛らしいワンピースに身を包んだ未乃梨の柔らかな身体の感触に、千鶴は別れの言葉を言い遅れた。
(続く)




