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♯138

激しい群舞のような「グレート」の第三楽章の後を受けて始まる、輝かしい第四楽章。

星の宮ユースオーケストラの演奏会の後で、千鶴と未乃梨と凛々子の関係には変化が訪れそうで……。

「グレート」の、荒々しくも豪快な第三楽章が幕を閉じて、客席は咳払いや客席に座り直す聴衆の身動きの音がざわざわと低く聞こえていた。

 舞台の上では演奏者が次の楽譜を開いて、指揮者が指揮棒を胸元に持って背後の客席のざわつきが静まり切るのを待っている。

 未乃梨は、舞台の静かさに客席が追いついていくのを感じながら、かえって自分が胸の中はざわついたままであることを飲み込めずにいた。

(千鶴、「グレート」が始まってからずっと舞台を見てる……やっぱり、弦楽器の人たちが気になってるのかな)

 隣に座る千鶴の視線は、演奏会の間、ほとんど舞台の前半分を占める弦楽器のパートに向けられているようだった。よほど集中しているらしく、特に「グレート」の演奏の間は、千鶴は視線を舞台から外していない。

(千鶴、やっぱり、オーケストラを聴きに来たら弦楽器の方ばかり見ちゃうよね。……千鶴に弦バスを勧めたのは、私なのに。でも、私じゃなくて、別の誰かを見ちゃうのね)

 未乃梨の中で、不満がうっすらと積もりつつあった。遠目に見える舞台の奥に座るトランペット奏者の持っている楽器が、部活で使っているのとは違う、ホルンのようにレバーで操作するロータリーバルブ式の楽器なのが目に入って、見慣れない楽器に未乃梨は今更戸惑いすら感じていた。

「……あ、始まる」

 不意に、千鶴がぽつりと呟いたのが聞こえて、未乃梨はやや驚いてその横顔を見上げた。

 千鶴の視線の先で、客席に恰幅の良い背中を向けている指揮者の両腕が掲げられている。その指揮棒が振り下ろされた。


 全合奏の強烈極まるフォルティッシモの和音が鳴らされて、ヴァイオリンからチェロに至るまでの弦楽器奏者がつむじ風を巻き起こすような細かい音符の連なりを刻んだ。

 弦楽器奏者による音符の連なりは瑞々しい彩りを帯びて、管楽器とコントラバスも交えて輝きを増した。花が咲き乱れるようなモティーフの応酬が始まり、陰りや悩みといった後ろ向きなものが全て乗り越えられたような明るさと力強さを持った響きが、ホールの空間を満たしていく。

 またしても、千鶴は聴きながら身体が動き出しそうになるのを何とかして止めた。今度は、ストラップシューズの中の爪先が音楽に合わせて動くにとどまらず、オーケストラの全合奏で強拍に奏されるフォルティッシモに合わせてストラップシューズのかかとが浮き上がって、床を踏み鳴らしそうになった。

 千鶴の身体が動き出しそうになってしまう箇所は、その後にもあった。

 チェロとコントラバスが弦を指で直接はじくピッツィカートの分散和音に乗って、オーボエとクラリネットとファゴットが喜びの笑みが溢れそうな表情を持った旋律を歌う。その場所の低音の弦楽器のピッツィカートに合わせて、千鶴は上半身を拍に合わせて動かしそうになった。

(おっと、いけない)

 客席の背もたれに上半身を落ち着かせると、千鶴はピッツィカートで木管楽器群を伴奏しているチェロとコントラバスに目をやった。

 チェロパートにいる智花(ともか)はウルフカットの髪を揺らして楽しげにチェロを弾いているし、コントラバスの先頭に座る|本条に至ってはオーボエやクラリネットのフレーズが入る前にやや大きく腕を振ってピッツィカートの準備をしていた。

(あれ? 智花さんも、本条先生も、何だか楽しそうに身体を動かしながら弾いてる?)

 千鶴はオーケストラを改めて見回した。よく見ると、楽しげに身体が動いているのはチェロとコントラバスだけではなかった。

 笑みが溢れそうな表情の旋律を吹いている木管楽器群は言うに及ばず、低音の弦楽器が弾いているピッツィカートの伴奏に細かな合いの手を入れてリズムに飾りを添えているヴァイオリンやヴィオラも、木管楽器群に途中から加わって旋律に華やかさを加えるフルートや、その次に合奏に合流して和音に明るさと厚みを加えていくトランペットやホルンの奏者も、よく見れば判別できる程度に上体を楽しそうに揺らしている。

 全ての楽器が、明るさや喜ばしさや愉しさといった前向きなものを持った響きで、「グレート」の終楽章を描き出していた。

 それは決して自分勝手さや野放図さといった乱雑な方向に傾くこともなく、春の野原に咲く花や夏の夜空に輝く星のように、それぞれがまるで別で存在しながら、全体としては極めて大きな括りの中で調和した響きを成している。

 千鶴は改めてオーケストラの響きに両耳を集中させた。集中させるまでもなく、シューベルトの音楽が、千鶴の身体の中に力強く流れ込んでくる。


 未乃梨も、「グレート」の第四楽章の流れにしっかりと意識を捉えられていた。

(……私、こんな音楽をステージで演奏できる人たちのこと、やっぱり嫌いになれそうにない……)

 明るさと喜ばしさで溢れた響きは、未乃梨の中で燻る、千鶴に近付きつつあった凛々子や他のユースオーケストラの面々に対する、後ろ向きな思いを溶かしきった。

(私は千鶴が好きで、千鶴が大好きになったこういう音楽もやっぱり好きで、それを演奏してる人たちも、拒絶なんてできない。それに……)

 未乃梨は、第一ヴァイオリンの先頭にいる凛々子に改めて目をやった。

(凛々子さんがいなかったら、千鶴に弦バスを教えられる人はいなかったし、千鶴が私と一緒にいてくれる時間だってもっと減ってたかもしれない……)

 オーケストラの響きは明るさを増していく。ティンパニとトロンボーンが加わって、四つの楽章に渡るシューベルトの「グレート」が大詰めを迎えつつあった。

 フルートやオーボエが愛らしく歌うその前で、ヴァイオリンが華々しく付点のリズムで踊るように跳ね回る。

(今は、私の知らないところで千鶴を支えてくれる凛々子さんのことも嫌いになるのは、やめよう。凛々子さんに千鶴が教わってくることは、私にも、吹奏楽部にも、きっと助けになるんだから)

 管と弦の高音楽器が歌い舞い交わす後ろでホルンやファゴットやチェロといった中低音の楽器が輝くような背景を描き出して、やがて全てのオーケストラの音が一つの和音へとなだれ込んで、喜び笑いあうような盛り上がりをなして、「グレート」が堂々たる輝かしい響きの中で、幕を閉じた。

 ほんの数瞬ほどして、客席から大きな拍手が巻き上がった。指揮者がオーケストラ全員を立たせて、凛々子と握手をした。凛々子のにこやかな顔が、この日の演奏会の内容が舞台の上でどのようなものであったかを、如実に表していた。

 未乃梨は、千鶴の耳元に顔を寄せた。

「ねえ千鶴、後で凛々子さんとか、『あさがお園』で一緒に演奏した瑞香(みずか)さんとか智花(ともか)さんに会いに行かない?」

「え? 楽屋に勝手に行って、大丈夫かな?」

「ロビーとか廊下でつかまるわよ。そろそろ行きましょう」

 明るさを取り戻した未乃梨に手を引かれて千鶴は席を立つと、そろそろはけ出した他の聴衆についてロビーへとゆっくり向かっていった。


(続く)


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