♯137
荒々しく始まる「グレート」の第三楽章と、その強烈なリズムに魅せられる千鶴と、そんな彼女に距離を感じ始める未乃梨と。
凛々子も含めた三人のトライアングルが、姿をあらわにし始めて。
「グレート」の第三楽章の滑り出しは、舞台の上で弾いている凛々子からすれば、まずまずの出来だった。
中学校や高校の部活のように、年度ごとに団員が少しずつ変わるのは星の宮ユースオーケストラも例外ではない。人数不足しがちな弦楽器は賛助で出演者を募ることも珍しくないのだった。
(今日の出来は厳しくつけても八十点、ってとこかしら)
その結果、寄せ集めに近い状態でありながら、アンサンブルが乱れずに第三楽章の冒頭の弦楽器全てによるユニゾンが乱れずに演奏できているのはコンサートミストレスを務める凛々子にとって安堵できた。
凛々子は大波が寄せては沈み込むような弦楽器全てのユニゾンの楽句を引っ張りながら、オーケストラを見回した。
第一と第二の二つあるヴァイオリンパートには、秋の発表会のヴィヴァルディでソリストを務める中学生が一人ずつ、ヴァイオリン全員で合わせて二十人と少しはいる演奏者に混ざって凛々子から見えない後ろの方の席で弾いているはずで、目立ったミスが聴こえないあたりしっかりと「グレート」に食いついて来れているのが聴き取れた。
ヴィオラには瑞香が、チェロには指導者の吉浦と智花が、コントラバスには賛助で参加してくれた本条がという具合で、それぞれのパートに信頼のおけるメンバーがいるのも凛々子としては頼もしい。
ティンパニと金管楽器群が弦楽器のユニゾンを煽るように後押しし始める辺りで、凛々子は集中力を保ったまますっと演奏にイマジネーションが乗る感触を覚えていた。
(もう一人、弦楽器に来てくれると嬉しい子がいるわね。座る場所は……とりあえずは、コントラバスの一番後ろかしら)
凛々子は、自分がいる第一ヴァイオリンから遠く離れた舞台上手に座を占める五人からなるコントラバス奏者たちの末席に、六人目の演奏者がいるような空想をする余裕すら生まれていた。
(今日、客席のどの辺りに座って聴いてくれてるかしら。……あなたが同じ舞台に立つ日、私、待ってるからね。千鶴さん)
第一ヴァイオリンとチェロが追いかけ合うカノンになったかと思えばまたユニゾンになったり、はたまた弦楽器のユニゾンから勇ましい主題をモティーフを拾って可愛らしいソロをさえずり交わすフルートやオーボエやクラリネットにモティーフで合いの手を入れたりと、目まぐるしく変わる第一ヴァイオリンの立ち回りを苦も無く捌きながら、凛々子は演奏中だというのに微かに自分の口角が上がるのを隠せない。
(「グレート」って、シューベルトの歌がぎゅうぎゅうに詰まった交響曲だって、今更ながら思い知らせてくれるわね。……千鶴さん、あなたともう一年早く出会えてたら、今日は一緒に演奏できたかしら)
目まぐるしく踊り手の組が入れ替わり立ち変わる群舞のような、「グレート」の三楽章が、ダンスの性格を強めるようにまとまった動きを見せていく。
弦楽器も管楽器もティンパニすらもまるで一体の大きな生き物のように、互いに引き合いながら進む演奏は、凛々子にとって最良の演奏経験の一つになりそうな予感すら与えていた。
千鶴は客席で「グレート」の第三楽章を聴きながら、身体が動きそうになるのをなんとか止めていた。表紙が小節の頭だけを振る速い三拍子だとわかると、千鶴は上半身を一小節か二小節のサイクルで揺らしそうになったり、弦楽器、特にコントラバスの音に合わせて弓を持つ右腕や弦を押さえる左手の指を動かしそうになったりと、演奏会を聴くマナーを破りそうになってしまう。
千鶴は両脚をきちんと揃えて客席の椅子に深く座り直すと、両手を膝の上に重ねて置いた。身体や手が動きそうになるのは徹底して止める代わりに、長いスカートの裾の奥に隠れたストラップシューズの爪先の中で足の指が動くのだけは止められなかった。
(でもこれなら、隣の未乃梨にも他のお客さんにも迷惑はかからないよね。……にしても、この「グレート」っていう曲、どうしてこんなに聴いてて身体が動き出しそうになるんだろう?)
千鶴に浮かびかけたそんな疑問も、それは「グレート」の第三楽章と千鶴の身体の感覚が更に馴染んだ辺りで霧が風と日光に追いやられて消えるように姿を消した。
未乃梨は、隣の席で千鶴が座り直す前から、千鶴が気になっていた。
(千鶴、音楽を聴いてて身体が動きそうになちゃうなんて、なんか小さい子みたい)
それは未乃梨からすれば微笑ましいようにおもえる、はずだった。
未乃梨は、千鶴が「グレート」の三楽章をききながら思わず動かしている身体の場所を見て、手を口元に添えて声を押さえそうになるほど驚いた。
ほんの僅か揺れそうになる千鶴の上半身は小節の頭の拍点に合わせて動いていて、それは管楽器のブレスや弦楽器の弓の動作とどこかで噛み合っているし、時折反射的に小さく動いてしまう右手の手首から先や左手の指先は明らかに弦楽器の演奏者の誰かを模倣していて、それはコントラバスの最前に座る本条か、指揮者のすぐ側でコンサートミストレスを務める凛々子のどちらかに合わせているようにしか見えない。
流石に鑑賞中のマナーに反するとすぐに気づいたのか、千鶴はそそくさと椅子に深く座り直していたものの、時折微かに揺らぐ黒くて丈の長いフレアスカートの奥では、恐らく足の何処かを小さく動かさずにはいられないのだろう。そして、きちんと座り直した千鶴の姿勢は、そのまま何かの楽器の演奏姿勢に移れそうなほど綺麗に整っている。
未乃梨はワンピースの裾をぎゅっと握りしめた。
(やっぱり、千鶴って凛々子さんやオーケストラの人たちに影響されてる……ねえ、隣に座って一緒に演奏会を聴いているの、私なんだよ? ねえ?)
声に出せない呼びかけを、未乃梨は飲み込んだ。ステージの上では、第三楽章の踊るようなリズムが収束して、ピリオドを打つような明快な和音が全合奏で打ち鳴らされて、舞台の上で緊張をはらんだ静寂が生まれていた。
(続く)




