♯136
そして、尚も続く「グレート」の演奏。
次の楽章に入って、千鶴と未乃梨はそれぞれ別のことに思い至って。
「グレート」の冒頭に現れた主題が全ての弦楽器のユニゾンで描かれて、決然と結ばれて輝きに満ちた和音の残響がホールから消えた。
(凄い……これが、オーケストラ……)
千鶴は拍手しようとして、未乃梨に手で制された。
「……待って千鶴、まだ続きがあるわよ」
小声で耳打ちしてくる未乃梨に、千鶴は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「そうなの?」
「プログラム、見て。この曲、楽章っていう区切りが四つあるの。今終わったのが、第一楽章」
「……あ、ほんとだ。そう書いてある」
プログラムの「グレート」の曲目紹介のページを見て、千鶴は内心で恥じ入った。そこには、「グレート」の四つの楽章と、それぞれの楽想や速度を表しているらしい見慣れない外国語の単語が列記されている。
(前半の曲みたく、いくつかのパートに分かれて出来てるってことか。……そういえば、発表会でやるヴィヴァルディの「調和の霊感」もそうだっけ)
千鶴は未乃梨に溜め息をつかれながら、居住まいを正して舞台を見た。
「グレート」は次の第二楽章に入っていた。
ヴァイオリンとヴィオラが静かに刻む和音の下を、チェロとコントラバスが忍び足で暗がりを歩くようなフレーズで進んでいく。その上を、最初にオーボエがソロで、次いでクラリネット加えたデュエットで、斜に構えたような旋律をリズミカルに歌う。
かと思うと、それは全合奏の叩きつけるような和音で断ち切られて、いたずらを見つかった子供がその場に隠れるように繰り返される。
その次には、涼しげに流れる滑らかな旋律がヴァイオリンとフルートに現れて、最初の斜に構えた旋律と対照をなした。
ここまで第二楽章に現れた旋律は、千鶴が認識出来ただけでも、斜に構えたようなリズミカルな旋律と涼しげに流れる滑らかな旋律の二つが何度も現れては展開して繰り返されて、違う色の紐を組み合わせて編んだミサンガのようにはっきりと対比されて音楽が進行していると聴き取れた。
(あれ? 同じメロディを交代で組み合わせて何度も入れ替えて進めてるだけなのに、退屈じゃ、ない……?)
中学校時代の音楽の授業で、鑑賞の時間に退屈で欠伸をした経験は千鶴にも何度かあった。その音楽の授業よりずっと長い時間、コンサートホールの椅子に座ったまま身動きもせずに聴いているはずなのに、千鶴は欠伸一つしていなかった。
(隣に未乃梨が座っているから? ステージの上で凛々子さんとかの知ってる人が何人も弾いているから? それで、全然知らない曲を長時間黙って聴けちゃうことってある?)
そこまで考えて、千鶴ははたと思い当たったことがあった。
(何か、初めて来た建物か何かの中を探検してる気分に似てるかも?)
千鶴はそっと隣の席に座る未乃梨を見た。未乃梨も、何故か自分でも理由がわからないまま、「グレート」の演奏から耳が離せないようだった。
未乃梨は、第二楽章が始まってからも、尚も戸惑っていた。
(こんな風にしっかりテーマが決まってて、何度も交代して展開する曲、私、ピアノのレッスンでも吹奏楽でもやったことない……)
「グレート」は、第一楽章も第二楽章も未乃梨の耳にはあまりに巨大な構造を持った曲として捉えられていた。
(さっきの第一楽章なんか、最初と最後に同じメロディが出てきて全体をまとめてるし、この第二楽章はメロディ二つぶんのアイデアがどんどん膨らんでる感じ、なのかな?)
そんなことを考えた未乃梨の耳は、フルートの音を耳で追おうとして、同じ音域で全く別の動きをしている楽器の動きに引っ掛かる。
(そういえばこの曲、メロディと伴奏に割り切れない場所が今までもいっぱい出てきたっけ……凛々子さん、それなのに合奏をまとめながらヴァイオリンを弾けてる、ってこと……!?)
指揮者のすぐ側の、ヴァイオリンの最前の席でヴァイオリンを弾く凛々子を、未乃梨は改めて見た。その弓の動きは、未乃梨がフルートを吹く時のブレスを吸う目安をこの場で取れそうなほど、フレーズに仕立てたように寄り添っている。
その凛々子の弓の動きは、大勢いるヴァイオリンや、ステージの右半分に陣取っているヴィオラやチェロやコントラバスといった下の音域の弦楽器の弓の動きと明らかに関連付けられているようでもある。
(「あさがお園」で演奏した時、私たち五人でお互いを見ながら演奏してたけど……それをこんな大人数の合奏でもやってるってこと……!?)
よく見ると、凛々子は指揮者と同じぐらい周りに気を配ってヴァイオリンを弾いているのが見てとれた。
凛々子は、「グレート」のスコアがまるで頭に入っているかのように、フレーズの始まりの予備動作でやや大きく上半身を振って自分から見えない管楽器に合図を出したり、長い音符でユニゾンになっている他の楽器の音の切れ目をカバーするように弓の返しをずらしたりと、アンサンブルを進める上で必要な小さな仕込みをいくつも用意している。
(……私、そんな風に合奏でフルートを吹いたこと、ない……。私、凛々子さんに敵わないの……?)
「グレート」の第二楽章の和音がフェルマータで伸ばされる中、未乃梨はそんな不安にかられて――和音の残響が消えてほんの数瞬のあと、未乃梨は急に現実に引き戻された。
全ての弦楽器がユニゾンで、ダンスの群舞が荒々しくステップを畳み掛けるような、勇ましい主題を弾き始めた。
(続く)




