♯135
優しく、力強く進む星の宮ユースオーケストラの「グレート」。
初めて聴く長大なシンフォニーに、千鶴は更に引き込まれて……?
まるでヴァイオリンやヴィオラといった小型の弦楽器のように軽快に動く星の宮ユースオーケストラのコントラバスパートに、千鶴は驚くことしかできなかった。それは、千鶴が想像しうるコントラバスの演奏技術をはるかに超えている。
(オーケストラのコントラバスって、あんなのを弾けなきゃいけないの……!?)
コントラバスがヴァイオリンのように軽快に動く箇所は、演奏会の前半に聴いた「魔弾の射手」や「静かな海と楽しい航海」でも聴かれた。それでも、他の全ての弦楽器と狂いもなく合わせて、しっかりと力強い最低音域を轟くように響かせていることに、千鶴は圧倒された。
(……私、凛々子さんとか本条先生に褒めてもらったりしてるけど、それって私が初心者だからで、本当はできなきゃいけないことが沢山あって……私、思い上がってた……?)
次第に、千鶴の胸の内は不安で揺らぎ始めていた。それを加速させるように、「グレート」の演奏は続いていく。
弦楽器がそれぞれに風に煽られてそよぐ野原に生い茂る草や木々のように揺れ動く中を、オーボエとファゴットが、次いでフルートとファゴットが、陰の差した甘苦い旋律を歌い交わす。
木管楽器の甘苦いモティーフは何度も繰り返されて重ねられるうちに、全合奏の力強い和音とティンパニとチェロとコントラバスの杭を打つような三つのビートで断ち切られた。それは、どんな不安をも押し流してしまうような明るさと熱さをはらんでいた。
千鶴は、明るさと熱量を増す楽想に思わず背筋を正した。それは、未乃梨も同じだった。
未乃梨は、「グレート」でのフルートの音をひたすら追いかけようとして、それが一筋縄ではいかないことを思い知っていた。
(え……? この曲、主旋律があって、伴奏があって、低音があって……って感じじゃないの……? 吹奏楽だったらそう考えたらほとんど解決するのに?)
未乃梨の耳が追いかけているフルートの音は、単独で現れることはほとんどなかった。
同じ木管楽器で音域がある程度似通ったオーボエやクラリネットか、場所によってはヴァイオリンと重ねられて、未乃梨にはフルートの音と認識できはしても今までに体験したことのない、他の楽器と混ざった響きが何度も現れていた。
かと思えば、木管楽器と金管楽器と弦楽器の全てのパートが音符が短いものなら三つか四つ、長くても二小節ほどの断片的なモティーフを、それぞれが一聴してばらばらのタイミングで打ち出しては重ねてを繰り返した後で、湖に舞い散った色とりどりの花びらが外に流れ出る川の流れに集まっていくように全合奏のひとつの和音に集まっていったりと、「グレート」の曲中での和音や合奏の組み立ては目まぐるしく変わっていく。
(これ、誰か主役で誰かが脇役、って決まってない音楽で、もし私がこの「グレート」っていう曲に参加してたら……?)
聴きながら、未乃梨はふと自問した。色の異なる花吹雪が混ざって散るような木管楽器と弦楽器の細かなモティーフのやり取りを、日向を吹き渡る南風のようなトロンボーンの旋律が通り抜けて、再び全ての弦楽器がユニゾンで弾く、付点音符が軽快に跳ね回るモティーフが現れていく。
(フルートの出番でも目立てばいいわけじゃなくて、周りを立てたり、誰か他の楽器と混ざった時にお互いに邪魔しないように考えなきゃいけないってこと……?)
未乃梨の思案も、あまりに豊かな彩りを持つ、各楽器が重ねる沢山のモティーフの断片の重なりにあっけなく押し流されていった。
星の宮ユースオーケストラの演奏は、中学校時代の吹奏楽部で顧問から口を酸っぱくして言われ続けた「合奏ではリズムと音程を合わせること」という言葉から、はるかに遠く離れたことを成していた。
(中学の吹部じゃ、ううん、高校でも「ドリー組曲」以外はこんなに複雑なこと、やってない……。だって、誰かが同じリズムか同じ音を演奏してる曲ばっかりだったもの。この「グレート」みたいな、全員がどこかで主役になるような曲なんて、したことなんか、ない)
未乃梨は恐る恐る、隣の席の千鶴を見た。
千鶴は、舞台の上のオーケストラの演奏を、瞳を見開いて食い入るように聴いている。未乃梨の脳裏を、すっととあるヴィジョンが横切った。
(吹奏楽じゃほとんど目立たない弦バスも、オーケストラだとどんなに大きな音の合奏でもよく聴こえて、ヴァイオリンやチェロなんかと一緒に大事な役割を任せられることもあって……あ!)
千鶴が、以前メッセージに添付して送ってきた画像の、発表会のために買ったというフレンチスリーブのブラウスに黒いロングスカートの衣装を身に着けて、オーケストラの中でコントラバスを弾いている姿を未乃梨はありありと脳裏に描いていた。
それは、未乃梨が間近で見たい千鶴の姿の一つで、もし千鶴がオーケストラの中でコントラバスを弾くことになれば、その姿は未乃梨以外の多くの人目にさらされることになると、未乃梨は気付いた。
その人目の中に、どうにも受け入れがたい人物がいることも、未乃梨には分かっていた。その人物は、ノースリーブの白いブラウスに黒いロングスカートを穿いて、目の前の舞台で指揮者のすぐ側の席でヴァイオリンを弾いている。その緩くウェーブのかかった長い黒髪は、舞台の照明に憎らしいほど映えていた。
(私が千鶴のカッコよくて素敵な姿を間近に見たいのに……もし千鶴が凛々子さんとかにオーケストラに誘われたら、千鶴のことを凛々子さんがずっと見ちゃうってこと……!?)
未乃梨の胸の鼓動が速まりかけたその時、オーケストラの響きが息せき切るように盛り上がって、その頂点で、全ての木管楽器が冒頭のホルンの旋律を輝かしく再現した。あまりに明るい響きに、未乃梨の物思いの陰が薄れかけた。
その次の瞬間、ヴァイオリンからコントラバスまで、合わせて四十人はいる全ての弦楽器奏者がユニゾンで、冒頭のホルンの伸びやかな主題を決然と力強く受け継いだ。その輝きに満ちた響きに、未乃梨は打ちひしがれたように客席のシートに背中を預ける。
(こういう曲をいつか千鶴が弾いて、凛々子さんがまた千鶴に近付いて……私、その時、どうしたらいいんだろう)
その隣でステージの上の演奏を聴き入る千鶴は、微動だにせずに、むしろ先ほど揺らぎかけた思いを落ち着かせていた。
(私には無理かもしれないし、そもそも私にこんな「グレート」みたいな曲をできるかどうかは分からないけど……挑戦してみたいって思っちゃダメだろうか。もし、私がこういう場所で演奏できたら――)
(続く)




