♯133
星の宮ユースオーケストラの演奏会が前半を終えて、その感想を反芻するうちに、自分がコントラバスを弾く理由をぼんやりと考える千鶴。その行き先が見えないまま、演奏会は後半に入って……?
手洗いに行くという未乃梨を見送ると、千鶴はプログラムを見直しながら、前半の二曲を思い返していた。
(初めて聴く曲だったし、良くわかんなかったけど……「魔弾の射手」は何か格好良かったし、「静かな海と楽しい航海」は旅行に出かけるみたいで楽しい感じだったかな……あと)
オーケストラの演奏中、千鶴はどうしても目と耳を離せないことがあった。
(コントラバス、「静かな海と楽しい航海」で優しくて、頼もしい音がして……やっぱり、本条先生が弾いてるから、かなあ。私もあんな風に弾けるように……やっぱり、難しいんだろうな)
考えてみると、千鶴がプロのコントラバス奏者を意識して生の演奏会で聴くのはこの日が初めてなのだった。本条と自分の演奏に途方もない隔たりがありそうなことは、コントラバスを弾き始めて間がない千鶴にも容易に想像がつく。
(あんな優しくて、頼もしい音で伴奏できたら、凛々子さんも、未乃梨も、喜んでくれるかな……でも、どこで? どこの本番で? そもそもコントラバスを始めたのって、未乃梨に誘われて、だし……)
そこまで思い至ったところで、千鶴の隣の席に未乃梨が戻ってきた。
「あ、おかえり」
「ただいま。パンフ、何か気になることでも書いてあった?」
千鶴の膝の上に広げられているパンフレットに、未乃梨が目を落とす。
「前半の『静かな海と楽しい航海』って曲、あったじゃない? あの曲のコントラバス、良いなって思ったんだけどね」
千鶴は、パンフレットの後ろの方にある、演奏者の一覧が載ったページを開いた。その中で、コントラバスパートの名前が並ぶ中で筆頭に書かれている、「本条舞衣子」という名前を指差して未乃梨に見せる。
「この本条って先生、前にここのオーケストラに見学に行った時にも弾いてたんだけど、何とかってオーケストラで弾いてるプロの先生なんだって」
「プロの弦バスの先生? そうなんだ?」
「練習の後でちょっとお話を聞かせてもらってさ。なんだか、優しそうで素敵な人だった」
「……ふーん、そうなんだ」
未乃梨は、演奏会の前半のプログラムでコントラバスパートの先頭に座って弾いていた、穏やかそうで子供に好かれそうな印象のある女性の奏者を思い返して、気持ちがまた微かにざわついた。
(この本条っていう先生、弦バスの先頭で弾いてた女の人だよね。優しそうで綺麗で、なんか母性っていうかお母さんっぽい、あの人)
七分袖の白いブラウスに黒のロングスカートという衣装の本条を思い返しつつ、未乃梨は演奏者が入る前の舞台の上を見た。舞台の上手にはコントラバスが五台、演奏する時に座る高い椅子とは別に用意されたパイプ椅子に斜めに寝かせるような形で立てかけてある。
(凛々子さん、……千鶴にあそこに座ってもらうつもりで、放課後に教えに来たりしてるのかな、やっぱり)
舞台袖には、間もなく始まる演奏会後半に備えて、星の宮ユースオーケストラの演奏者が既に集まっていた。
上手側の袖では、舞台の中程に座るヴィオラやその奥に座るオーボエやトロンボーン、舞台上手の前にいるチェロ、その後ろに座を占めるコントラバス
と、舞台に上がる順に演奏者が一部のパートを除いてそれぞれの楽器を手にして並んでいる。
チェロを持った智花 は、ヴィオラを手にして舞台の入り口のすぐ側にいる瑞香に忍び足で近付くと、そっと耳打ちをした。
「高校最後の本番のメインの曲に臨む気持ちはどう?」
「やっぱり、名残り惜しいっていうか、ちょっと寂しいかな。今日やる『グレート』、すごく良い仕上がりだしね」
そう言って笑ってみせる瑞香に、もう一人、弓だけを持った者が近寄ってきた。
「大学に受かったら、ヴィオラとオーケストラは続けるんだよね。受験、頑張ってね」
コントラバスの弓を手にしてそう微笑みかける本条に、瑞香も、智花も頷いた。
「第一志望は智花と同じ大学なんで、合格したら星の宮ユースに戻って来ます」
「ま、私と違って、瑞香なら余裕でしょ」
笑いあう二人に、本条は困ったように笑ってみせた。
「全く、本番前にイチャついちゃって」
「良いじゃないですか。本条先生だってご主人とラブラブなんだし」
「そうですよ。この前のリサイタル、ピアノ伴奏の旦那さんと楽屋でべったりだったんでしょ?」
背後からの声に、本条はばつの悪そうな顔で頭を掻きながら振り返る。声の主は、瑞香よりやや背の低い、コントラバスの弓を手にした三つ編みの髪の少女だった。三つ編みの少女は小声で本条に告げる。
「波多野さん。ああ、あの時は聴きに来てくれてありがとね」
「本条先生、この前見学に来たあの背の高い子が聴きに来たからって、ご機嫌ですね?」
「あの子はどこにいても目立つよ。舞台から見て、すぐにわかったからね」
波多野と一緒に、本条は忍び足でコントラバスパートが集まっている辺りに戻った。チェロを手にしながら小さく咳払いをする吉浦を遠巻きに避けつつ、本条は波多野に小声に話す。
「見学で私のコントラバスを弾かせたら我流で『第九』を弾いちゃうような肝の座った子だもの。星の宮に来ないかなって思っちゃうよ」
「吹奏楽部で弾いてる子でしたっけ。私も、ああいう子と一緒に弾いて見たいかも」
三つ編みを揺らして笑う波多野に、本条は開く直前の舞台袖の扉を見ながら応える。
「じゃ、あの江崎さんって子にも楽しんでもらえるように、今日は張り切って行こうか」
「はい」
波多野は小声で、本条に強く頷いた。
(続く)




