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♯129

いつの間にか千鶴の中に根付き始めている凛々子の影響に、心穏やかではいられない未乃梨。

一方で、凛々子は楽屋から舞台袖に向かいながら、心を躍らせていて……。

「ええっと、迷うなあ……。未乃梨(みのり)はもう決まった?」

 未乃梨に手を引っ張られて連れてこられたカフェで、千鶴(ちづる)はメニューを見ながら迷っていた。

「あ、気にしないで。……演奏会まで時間あるし、ゆっくり決めて」

 何かが喉に引っ掛かったように言い淀む未乃梨に、千鶴は小首を傾げた。

「未乃梨、どうかした?」

「……ううん。何でもない」

 未乃梨は軽くテーブルに頬杖をついたまま、カフェの店内を見回す。気になっているお店、と言って千鶴を引っ張って来たわりには、未乃梨は店の壁やフロアを落ち着かない様子で見回している。千鶴は今度は内心で小首を傾げながら、メニューを閉じた。



 ほどなく運ばれてきたランチセットのチキンドリアをフォークで口に運びながら、千鶴は未乃梨の様子に微かに妙な点があることに気付いた。 

 楽器店から出て、演奏会のあるディアナホールからほど近いこのカフェに入ったのは十二時より二十分ほど前で、演奏会の開演から二時間以上は余裕がある。楽器店の書籍コーナーをもう少し見て回ろうとした千鶴の手を、未乃梨カフェまで引っ張って来たのだった。

 その未乃梨がカフェで頼んだものも少し変といえば変だった。未乃梨はホットのカプチーノとパニーニだけで、千鶴が頼んだ小さなサラダとスープとドリンクが付いたドリアのセットと比べると明らかに少ない。

 千鶴は、未乃梨が心ここにあらずといった様子で店の中を見回したり、少しずつしか口に入れていない手元のカプチーノやパニーニをじっと見たりしているのを見て、フォークを持った手を止めた。

「あれ? 未乃梨、食欲ないの?」

「……え? ああ、そんなわけじゃ、ない、けど」

 未乃梨は慌てるように水の入ったグラスを口に運ぼうとして、中が空なことに気付いてからホールスタッフを呼んだ。

「あ、すみません。ちょっと、お水下さい」

 いつになくぎこちない未乃梨のグラスに、やってきた女性のホールスタッフがピッチャーで水をついでいった。

「どうぞ。ごゆっくり」

 ホールスタッフの語気には小さな子供に接客をするような、困り笑いのような柔らかさが滲み出ていて、未乃梨はそれに気付いて赤くなった顔を俯かせた。

 千鶴も、ふと気になって店の中を見回した。高校生の二人連れは千鶴たちだけで、それが女の子同士でしかも片方が並の男の子より背が高い千鶴というのが珍しいらしく、それとなく周囲から注目をされているようだった。

「未乃梨。せっかく久し振りに一緒に出かけてるんだから、顔上げて。ね?」

 穏やかに千鶴に言われて、未乃梨はやっと顔を上げた。

「あ、……うん、ごめんね」

 未乃梨がやっとのことでほとんど手つかずのカプチーノを口に運ぶと、千鶴は安心したようにほっと小さく息を付いた。



 楽屋でペットボトルに一口残った水を飲みきると、凛々子(りりこ)は自分のヴァイオリンと弓を手にしてすっくと楽屋の椅子から立ち上がった。

 女性の弦楽器奏者が使っている大部屋からは、コントラバスの本条(ほんじょう)やチェロの智花(ともか)に指導者の吉浦(よしうら)、ヴィオラの瑞香(みずか)といった舞台の上手に座る中低音の弦楽器の面々はもう出払っていた。そろそろ楽器を用意して楽屋の戸口に進み始めているのは舞台の下手からやや内側に座る第二ヴァイオリンの面々だろう。

(私、本番前のこの時間がたまらなく好きなのよね)

 凛々子はじわじわと少しずつ高まる緊張感に身体を任せながら、それでも口角を上げずにはいられなかった。今日の本番はそれほどまでに楽しみで、凛々子に押し寄せる緊張の波もただただ心地よい。

 第一ヴァイオリンの面々に続いて、最後に楽屋を出る頃には、凛々子は自分の緊張感が快感を伴い始めていた。それは、油断や慢心とは遠く離れたところから生まれていた。

(……第一ヴァイオリンで最後にステージに上がるコンサートミストレスになってから、もうすぐ三年、か。初めての時は、ステージでオーボエの方を見てチューニングの開始を合図するのも怖かったけど)

 楽屋から舞台袖へと続く廊下で、凛々子の前を歩く第一ヴァイオリンの他の面々から私語が消えていく。足音も少しずつ弱まって、これから始まる今日の本番へと、星の宮ユースオーケストラの一人ひとりの奏者が表情を引き締め始めている。

 舞台袖では、先に下手からステージに上がるトランペットとホルン、そしてその次にステージに入るフルートやクラリネットといった管楽器の面々が既にセクションごとに並んでいた。賛助で演奏に参加する奏者が手にしている、ピストン式のバルブとは違うホルンと同じロータリー式のトランペットが、これから演奏する楽曲の響きを凛々子に思い起こさせて、緊張感にまつわる心地良さを更に煽り立てる。

 ステージマネージャーの誘導で、管楽器奏者が順にステージに進み出はじめた。凛々子は舞台袖まで聞こえてくる拍手に、再び口角を上げた。

(さあ、始まるわ。千鶴さんに未乃梨さん、楽しんでいってね)

 第二ヴァイオリン全員がステージに進み出て、凛々子も舞台の入り口間近まで足を進めた。第一ヴァイオリンの最後に並びながら、凛々子はこれから演奏する楽曲に向けて、意識をすうっと透明にしていった。


(続く)

 

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