♯126
ユースオーケストラの練習が佳境に入って不在の凛々子から出された課題に取り組むうちに、とあることに気づく千鶴と合奏練習で千鶴と一緒に演奏したい思いが募る未乃梨。
二人の思いの行方は、果たして。
その週の後半、千鶴の部活は、文字通りの個人練習だった。
凛々子は千鶴のスマホに、こんなメッセージを残していた。
――星の宮ユースオーケストラの本番が近いので、木曜日からは千鶴さんの練習を見てあげられません。「オンブラ・マイ・フ」はコントラバスで弾く以外に歌って練習すること、「調和の霊感」は短音階のバリエーションも練習しておいてね
千鶴は、水曜日の練習で凛々子に口頭で言われたことと同じ内容の、宿題のようなメッセージを読み返してから、「調和の霊感」第八番の楽譜を見直していた。その第二楽章も、千鶴は以前に第一楽章で「?」と書き込んだCisの出てくる箇所と似た違和感を覚えている自分に気付いた。
(最初と最後におんなじパターンが出てくる以外はずっと休み……だけど、これって……?)
「調和の霊感」第八番の第二楽章のコントラバスは、千鶴の目から見ても音階を途中まで下っては戻るようなモティーフの繰り返しで作られている。千鶴は、第二楽章と第一楽章で「?」を書き込んだ箇所を見比べた。
(第二楽章はD・C・B・Aで第一楽章はD・Cis・H・A……もしかして)
千鶴は凛々子からもらった、Aから始まる短音階のバリエーションが三段並んで書かれた五線紙を取り出した。
(CとBが出てくる第二楽章は自然的短音階に似てる? CisとHが出てくる第一楽章は旋律的短音階なのかな? ……Aが小学校の音楽で習った「ラ」だけど、Dを「ラ」に置き換えたら……?)
コントラバスを起こして調弦を確かめると、千鶴は「調和の霊感」第八番の第二楽章をコントラバスで弾きだした。たった今思い付いたことが、コントラバスを弾きながら口をついて出るように歌になっていく。
「ラ・ラ、ラ・ラ・ソファソ・ソ、ソ・ソファミ・ファ・ファ――」
Dの音を「ラ」に置き換えて歌いながら弾くと、音程がはっきりと合いはじめた。千鶴は「あれ?」と小さく声に出して驚いた。
(Aの音を必ずしも「ラ」で読まなくていいってこと……?)
千鶴は、ふと思いついてニ長調の音階を弾いてみた。「あさがお園」で弾いた曲のうち、「カノン」と「G線上のアリア」の二曲がこの調で、千鶴の指とと耳はすっかり覚えている。
(D……E……Fis……G……この四音って、「ドレミファ」に置き換えられるのかな?)
ニ長調の音階をゆっくりと何度も上り下りしながら、千鶴は考えを巡らせた。
(待てよ? 音階みたいな動きで出来た曲、弾いたことなかったっけ……あ!)
すっと閃いたことがあって、千鶴はコントラバスを構え直す。何の迷いもなく弓が動き、千鶴の口から読み方を置き換えた音符が歌となって流れ出した。
「ミーミーファーソーソーファーミーレー、ドードーレーミーミーレレー――」
Fisの音を「ミ」と読み替えた、ベートーヴェンの「歓喜の歌」の旋律を千鶴は歌いながらコントラバスで弾いた。置き換えた読み方と何度か弾いたのある旋律が、着慣れた服のように千鶴の耳に馴染んだ。
(これは長調だけど、やっぱり音符を置き換えて読むのって何か意味があるっぽい? ……これ、今度の演奏会が終わったら凛々子さんに聞いてみようかな)
千鶴は小首を傾げながら、もう一度考えを巡らせた。まるで、数学の問題の解き方を見つけたのと似た感覚が頭の中に芽生えたようで、千鶴は少しだけわくわくと胸の内を躍らせた。
千鶴が音階練習で妙な拾い物をしているその頃、音楽室では、「ドリー組曲」の合奏練習が行われていた。
未乃梨は、細心の注意を払って第一曲の「子守唄」のフルートパートを吹いた。小さな子供を寝かしつけるように、できるだけ柔らかな音で。
五月の連合演奏会よりは少ない人数の合奏は、未乃梨が中学時代に部活で経験したものとは様子が違った。顧問の子安は、吹奏楽部から穏やかで澄んだ音を引き出そうとしていた。
舞台上では上手に当たる、未乃梨が座っているフルートパートから見て指揮台に座る子安を挟んだ反対側のテューバパートは、二年生の新木と一年生の蘇我が同時に吹くことがほとんどなく、どちらか片方が常に休んでいる。
未乃梨のすぐ近くに座るオーボエやクラリネットといった高音の木管楽器のパートからも、未乃梨が中学時代に部活で聴いたのとは明らかに違う種類の音が出ている。子安は、要所でこう言った。それも、注意しないと聞き逃すような、小さめの声で。
「いいですか、皆さん。今年コンクールでやる『ドリー組曲』は、大げさなことをやろうなんて考えないでください。吸ったブレスが自然に肺から出て楽器を鳴らす、それだけでいいんです。でも、それだけのことで音楽が自然に出来上がっていくのを目指して欲しいんですよ」
子安が指揮棒を降るたびに、合奏全体の音は澄んで柔らかに、暖かになっていった。
交代で吹いて合奏全体のサウンドを支えるテューバパートの二人を見ながら、未乃梨はぼんやりと考えた。
(千鶴がもしここにいたら、もっと良くなるのかな。ユーフォとかテューバのパートも、もっと暖かい音で吹けるのかな)
未乃梨は、校舎のどこかで一人で練習しているだろう千鶴を思い浮かべながらフルートを吹いた。テューバパートより更に遠い場所に、大きなコントラバスを構えた、吹奏楽部のどの男子よりも高い背丈の千鶴が立っているような錯覚が未乃梨を捉えている。その、穏やかで力強いコントラバスの低音が、未乃梨には恋しくなっていた。
(コンクールが終わったら、発表会で。その後は文化祭で。早く、千鶴の弦バスと合わせたいな。そのこと、今度の凛々子さんの演奏会を聴きに行く時に、千鶴に話したいな)
(続く)




