♯125
五限目のあとの休み時間に千鶴を教室の外に連れ出す未乃梨。一方で、星の宮ユースの練習も大詰めの凛々子。
未知の世界が待っている方向へ、千鶴は……?
五限目の終了のチャイムが鳴ると、未乃梨は千鶴を教室の外に誘い出した。
未乃梨は、意を決したように千鶴に告げた。
「あのね。メッセージで話して朝に相談できなかったことなんだけど」
「確か、凛々子さんのオーケストラの本番だっけ?」
「そう。その日、私もコンクールの練習はないし、演奏会の前にどっか寄らない? 私も、コンクール前に息抜きしたいし、さ」
「いいけど……私、母さんにちゃんとした格好で行けって言われちゃってさ。かっちりした服でどこかに遊びに行くのは……」
少しだけ渋る千鶴に、未乃梨は手を振って打ち消した。
「あ、どこに行くかは私に任せてくれればいいから! っていうか、私が千鶴にちょっと付き合ってほしい場所があるだけなんだけど」
「それ、どこ?」
未乃梨は、顎に人差し指を当てながら答えた。
「楽器屋さんとか、あと一緒に軽くお昼行ったりとか」
「なあんだ。じゃ、一緒に行こうか?」
「ほんと!?」
千鶴の言葉に、未乃梨は顔をほころばせた。朝の音楽室からどこかしら暗かった表情が、やっと明るさを取り戻している。
「何なら、家まで迎えに行くよ。未乃梨のお父さん、心配症なんでしょ?」
「うちに来てくれるの? じゃ、スカート穿いてきて。約束よ」
元気になった未乃梨は、千鶴の顔をいたずらっぽい目で見上げてきた。
「大丈夫? 中学の時、私制服着てるのに男の子に間違えられたんだけど」
「お父さん、そのことでちゃんと謝りたいって言ってたから! あ、そろそろ戻ろっか」
未乃梨は千鶴の手を引いた。六限目のチャイムに急かされるように、二人は教室へと戻っていった。
その日の放課後は、未乃梨はずっと明るい気持ちで過ごした。部活でパート練習をしている間も、「ドリー組曲」の厄介な場所はいつもよりは尖った音にならずにフルートを吹けたように思うし、部活の終わりにコントラバスを音楽室に預けに凛々子と一緒にやってきた千鶴と凛々子を見かけても、暗い顔をせずに済んだ。
それでも、学校の最寄り駅までの道すがら、未乃梨は朝のように千鶴の左腕に取り付くように自分の右腕を絡ませてきた。それを見た凛々子が、困ったような、呆れたような顔で微笑む。
「あらあら。未乃梨さん、最近は甘えん坊さんなのね?」
「千鶴の隣は私の定位置ですから」
「じゃあ、私はここにしようかしら」
得意気な顔の未乃梨の左腕を、凛々子が引いた。未乃梨の手が凛々子の手に握られて、凛々子が未乃梨にそっと寄り添う。
「え? ええ?」
未乃梨は左右を見渡した。右側の自分より顔ひとつは優に背の高い千鶴と、自分より少しだけ背の高い凛々子に挟まれていることに気付いて、未乃梨はむくれた。
「これじゃ、私が親子連れの子供みたいじゃないですか」
「未乃梨さんが私の娘だなんて、私は嫌ではないけど。千鶴さんはどうかしら?」
凛々子は未乃梨の頭越しに千鶴の顔を見た。まだ夕暮れには早い時間に、千鶴の顔が赤く染まっていく。
「え? それじゃ、未乃梨が私と凛々子さんの子供……ええっ!?」
「ちょっと凛々子さん! 何しれっと千鶴と結婚しようとしてるんですか!」
「あら、私はそこまでは言ってないわよ? そういえば、最近はお母さんが二人いる家庭もあるって話だけれど?」
とぼけてみせる凛々子に、未乃梨の眉が釣り上がっていく。
「ちょっと! 凛々子さんはもう離れて下さい!」
「未乃梨、大きい声出さないで、ね? 凛々子さんも未乃梨を煽らないでくださいね?」
しどろもどろに二人を取りなす千鶴の声にはっとして、未乃梨は周りを見た。下校中に千鶴たち三人を見かけた呆気に取られた男子生徒や、思わず吹き出しそうになって口元を手で押さえる女子生徒が通り過ぎていくのを見て、未乃梨はばつが悪そうに両側の腕をほどく。最初に、凛々子が口を開いた。
「残念ね。私、未乃梨さんともっと仲良くなりたいのだけれど?」
「そういうこと言って、また千鶴に近付くつもりでしょう? 凛々子さんは千鶴が弦バスを弾いてる時以外、近づいちゃダメですからね!」
やっと太陽が南に傾いた、まだ色づく前の空の下で、未乃梨の声が響いた。
その週の土曜日、ディアナホールのリハーサル室での星の宮ユースオーケストラの練習の後で、凛々子は楽しそうに瑞香と智花に話して聞かせた。
「――っていうことが、学校であったわ。そうそう、二人とも今度の本番は聴きに来てくれるそうよ」
くすくすと笑いながらヴァイオリンを仕舞う凛々子に、瑞香と智花は呆れたように笑う。
「凛々子、完全に未乃梨ちゃんのこと面白がってない?」
瑞香がさして汚れてもいない眼鏡を外してハンカチで拭きはじめた。
「これだからうちのコンミス殿は。完全に面白がってるね」
智花も、片手を額に当てて、リハーサル室の天井を仰ぐ振りをした。
「あら、失礼ね。私は二人のこと、同じぐらい好きよ? うちのオケに来てほしいって思うぐらいにはね」
へえ、と瑞香が眼鏡を掛け直して、ディアナホールのリハーサル室を見回した。
オーケストラが丸ごと入る広い室内に、コントラバスはプロの演奏家の本条が来ているとはいえ、今日の参加者はたったの四人しかいない。一方で、フルートの席には三人もいて、オーケストラの規模からすれば十分な人数だった。
「ま、未乃梨ちゃんは経験者だし、千鶴ちゃんは将来有望そうなのはわかってるけど、さ」
嘆息する瑞香の肩に、智花が手を置いた。
「私は二人とまたやりたいって思うけどね? オーケストラに二人とも来てくれるかどうかはともかく」
「とりあえずは、二人に今度の本番を楽しんでもらってからよ。メンデルスゾーンにウェーバーにシューベルトだなんて、今回楽しい曲ばっかりだしね」
どこまでも上機嫌な凛々子は、瑞香と智花の後ろに広がる、練習が終わって各々の楽器を片付けている団員がまだ残ったオーケストラの席を見回した。
(続く)




