♯123
凛々子の影響を受けて明白に変わっていく千鶴の演奏に、疎外感を感じる未乃梨。
せめて少しでも千鶴と一緒にいようと未乃梨は画策するものの、そうは問屋が卸さないようで……?
千鶴と植村が「オンブラ・マイ・フ」の楽譜を見ながら話している一方で、他の木管パートの部員が音楽室にやってきていた。未乃梨は慌ててピアノを離れて、フルートを組み立てた。
そろそろ、木管パートでの朝練に移らなければいけない時間だ。それでも、未乃梨はまだ千鶴と大事なことを話していないように思われた。
「小阪さん、そろそろ始めるよ」
オーボエの上級生に促されて、未乃梨は急かされるようにセクション練習に加わった。
未乃梨はフルートを構える前に、千鶴の方を目だけを動かして見た。
植村が他の金管楽器のパート員の方に行ってしまったあとで、千鶴は何か別の曲の個人練習を始めている。吹奏楽部の管楽器奏者とは明らかに違う内容の練習に、千鶴は取り掛かっていた。
(千鶴が弾いてるのって、短調のスケール……あれも、凛々子さんからもらった課題なのかな)
未乃梨は、視線を千鶴から木管パートの部員が集まっている方に戻した。それでも、未乃梨は後ろ髪を引かれるように千鶴が気になっている。
(千鶴が経験者だったら、コンクールに一緒に出られるのに。今日の朝みたいに木管のセクション練習に、手伝いで加わってもらうことだってできるのに……もう)
一度目を伏せると、未乃梨は「ドリー組曲」の楽譜に無理矢理意識を集中させた。
植村や未乃梨がそれぞれの練習相手のところに行ってしまった後で、千鶴は「調和の霊感」第八番の楽譜をさらい直していた。
ただの伴奏にしては動きがあり、「あさがお園」で演奏したバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」や「G線上のアリア」とはまた様子の違う、妙にメロディックな低音のパートを、千鶴はひたすら追った。途中、「?」と書き込んだCisの音を含むフレーズの箇所で、千鶴は立ち止まった。
(ここだとD・Cis・H・A・G・F・E・D、最初の方に出てきたのはA・Gis・Fis・E・D・C・H・A……何かそっくりな動きに見えるなあ)
千鶴は、その動きが多くて細かい割に、妙に左手のポジションを取るのが容易く感じるフレーズを繰り返して弾くうちに、譜面に書かれている音が踊りだすような不思議な感覚にとらわれていた。
左手の指使いや右手の弓の動きを確かめようと遅いテンポで弾こうとしても、いつの間にか少しずつ弾いているテンポが上がっていく。そのくせ、左手も右手も、テンポが速まっても何故か大きな破綻もなく弾けてしまうのだった。
(これ、マズいやつじゃないか? バスケで調子に乗ってドリブルで先走ってミスる時みたいな、あの感じと何か似てる気がする)
千鶴は無理矢理に遅くしたテンポで「調和の霊感」第八番の第一楽章をもう一度通した。どうにもテンポが上がってしまいそうな、踊り出すようなリズムを持った低音のフレーズに振り回されそうになりつつ、千鶴は妙なことを思い付いた。
(Aが小学校の音楽で習った「ラ」なんだよね……でも、さっきの似てるフレーズ、最初のAから始まる方も、途中で出てくるDから始まる方も、「ラソファミレドシラ」で読んじゃダメかなあ? だって、良くわかんないけど、両方ともフレーズの形としてはそっくりじゃないか?)
一限目の予鈴が始まる時間が迫る頃になって、音楽室に朝練に来ていた吹奏楽部員はみな慌ただしく後片付けを始めていた。千鶴も、弓を緩めてコントラバスの弦に着いた松脂を拭き取ると、巨大な楽器をさっさとケースに納めて音楽室の奥に仕舞い込んだ。
未乃梨は何とかフルートを分解して管体の掃除を済ませてケースに仕舞うと、音楽室を廊下で待っていた千鶴の左腕に取り付いた。
千鶴は、困惑したように未乃梨を見た。
「あの、未乃梨? 急がないと一限目に遅れるよ?」
「ダメ。あと三秒」
妙な理由をつけて、未乃梨は千鶴の左腕に取り付いたまま、千鶴を引っ張るように歩き出した。未乃梨が千鶴の腕を解放したのは、自分が言ったタイムリミットを数十秒ほど過ぎた、一年四組の教室に近づいてからだった。
未乃梨は教室の前で千鶴の左腕を放すと、千鶴の顔をじっと見上げた。
「今日はコンクールメンバーは残らないから、一緒に帰るわよ」
「あ、……うん」
「何よ。凛々子さんと一緒の方がいいの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃ、楽器を片付けたら音楽室の前で待ってて。約束だからね」
未乃梨はそう言い残すと、教室の自分で席へと足早に去っていった。
昼休みも、未乃梨は千鶴と一緒にいようとした。四限目の後で飲み物を買いに購買に行こうとする千鶴を、未乃梨は呼び止めた。
「千鶴、購買でしょ? 私も行く」
購買の自販機に向かう途中、未乃梨は千鶴の左腕に取り付いたままだった。その未乃梨と千鶴に、声を掛ける者があった。その声を聞いて、未乃梨は眉を微かに釣り上げて、千鶴は困ったように笑うしかなかった。
「あら、千鶴さんに未乃梨さん。お昼も一緒だなんて、本当に仲良しなのね」
声の主は自販機で二人の後ろに並んでいた、凛々子だった。
(続く)




