♯122
早朝の音楽室の練習で千鶴が弾く「オンブラ・マイ・フ」をピアノで伴奏する未乃梨。
その千鶴には、誰かの影響がしっかりと見えていて……!?
音楽室に着くと、千鶴は早速コントラバスと楽譜を準備した。未乃梨も空いている机にフルートケースとスクールバッグを置いてから、ピアノの前に座る。
「じゃ、木管の子が来るまで、『オンブラ・マイ・フ』、やってみよっか?」
準備のできた未乃梨に、千鶴は「それなんだけどさ」と言いながら、ピアノの近くに歩み寄ってきた。
「この曲、楽器で弾く前に、この前植村先輩に見てもらったときみたいに、歌ってみていいかな? ……やっぱり、歌の曲だし、自分で歌ってみたほうがいいかな、って」
千鶴の申し出に、未乃梨は目を丸くしかけながら、「じゃ、やってみる?」と頷いた。
「特に最初の方、結構フレーズ長いから、息切れしてぶつ切りにならないように注意、ね」
「わかった。それじゃ、ピアノお願い」
穏やかな和音で始まる前奏を未乃梨がピアノで弾き始めるのを聴きながら、千鶴はゆっくりと息を吸った。千鶴の頭の中に、昨日帰宅してから入浴中に「オンブラ・マイ・フ」をハミングで歌ったことが思い出されていく。
(あんな感じで力まずに、お風呂に入ってるみたいにリラックスすれば……)
前奏の終わりに合わせて、千鶴の歌がゆったりと歩むように入った。
「Ombra mai fù, di vegetabile――」
千鶴の声が、しっかりと歌詞を乗せてアリアの旋律を紡いだ。未乃梨が思っていたよりやや遅めのテンポで、ゆっくりと話しかけるように。
わずか三分ほどの短い歌を、千鶴は最後まで歌い切った。ところどころで声が痩せてしまったり、歌詞の子音が外れかけて発音が崩れそうになったりしてはいても、旋律としては立派に形を成すように歌えている。そのことに、未乃梨は目を丸くした。
未乃梨が最後の和音を弾き終えて、その残響が消えてから、千鶴はやや自信無さげに未乃梨に尋ねた。
「どう、かな?」
「千鶴、今の、昨日より良かったよ? すごいじゃない! この調子で、コントラバスで弾いてみて」
「わかった。調弦するから、Aの音ちょうだい」
ピアノで鳴らしたAの音に合わせて千鶴が調弦をするのを、未乃梨はそれとなく見た。そのコントラバスを構える姿勢や弓の運びに、未乃梨はどことなく見覚えがあるような、奇妙な感触を覚えた。
(千鶴がコントラバスを構えてるとこ、なんか変わった? ……ううん、まさかそんなはずは)
未乃梨が特に気にかかったのは、千鶴の右手の運びだった。
まだまだ覚束ないところがあるとはいえ、千鶴が右手に持つコントラバスの弓は、ある程度遅い動きであればまるでレールの上を進む列車のように乱れずに動いていた。
(気のせい? 流石に、吹部に入った時に比べたら、今の千鶴は上手くはなってるけど……)
微かな引っかかりを感じながら、未乃梨は「オンブラ・マイ・フ」の前奏を弾き始めた。先ほど千鶴が歌ったのと同じように、やや遅めのテンポで始めた前奏に、千鶴のコントラバスが入ってくる。
未乃梨は、いつしか千鶴の弓の運びを見ながらピアノの伴奏を合わせていた。
(この感覚、どこかで……?)
千鶴の確かになりつつある弓の運びは、「あさがお園」で自分のフルートと千鶴を含んだ弦楽器奏者四人での五重奏を演奏した時の感覚に良く似ていた。
(千鶴のコントラバスが、智花さんのチェロとか、瑞香さんのヴィオラとか、……凛々子さんのヴァイオリンに似てきてる、ってこと!?)
穏やかに流れる、先ほど千鶴が自分の声で歌ったようにコントラバスで弾く「オンブラ・マイ・フ」の旋律は、いつしか未乃梨のピアノを引っ張っていた。
あくまで穏やかに、最後の音を千鶴は弾ききった。たっぷりと倍音を含んだコントラバスの音がじんわりと響くその後ろで、そっと静かに音楽室の扉を開ける音がした。
「お、やってるねえ。その様子だと、ちゃんと歌って練習してるみたいだねえ?」
「あ、植村先輩。おはようございます」
コントラバスを身体に立て掛けたまま、千鶴が植村に会釈をした。
「……おはようございます」
千鶴の会釈で植村に気付いた未乃梨も、ピアノの前に座ったままぼんやりと植村に挨拶をした。
「お二人ともおはよう。江崎さん、昨日もこの曲弾いてたけど、今日のはまたちょっと良くなってるね?」
「あ、ありがとうございます。実は、昨夜お風呂に入ってるときに歌ってたら、楽に歌えたんで今日もそのイメージでやってみました」
「道理でリラックス出来てるわけだ。小阪さんのピアノもちゃんと流れを作れてて良かったよ?」
植村はそう言うと、音楽室の奥へと自分が使うユーフォニアムを出しに引っ込んだ。
「あ……ありがとうございます」
植村に褒められたことは、未乃梨の中でどこかでうまく落ち着けられなかった。というか、納得のいかないようにすら、未乃梨には思えた。
(今のは、千鶴が私を引っ張ってくれたから上手くいったのに。……それより)
未乃梨の中で、看過できないことがあった。
ユーフォニアムを出してきた植村が、千鶴と「オンブラ・マイ・フ」の楽譜を見ながらなにか相談している様子を見ていても、未乃梨は何も思わなかった。それでも、千鶴が弓を構えたとき、その右手の動きや演奏中の所作には誰かの影を感じずにはいられない。
(千鶴のコントラバス、私より付き合いの浅い部活の外の人たちに似てきてて、それを手がかりに上達してる……? どうして、どうして、なの!?)
眼の前で「オンブラ・マイ・フ」をユーフォニアムで吹いて見せる植村に聴き入る千鶴は、以前の未乃梨であれば笑って済ませるか、せいぜい後で植村のユーフォニアムに聴き入っていたことを茶化す程度だっただろう。しかし今は違った。
(千鶴……いつの間に、私以上に頼ったり、仲良くしたりする人が出来てしまったの? まさかそれって……やっぱり、凛々子さんなの!?)
(続く)




