♯116
昼休みのフルートパートの練習で、密かに千鶴といられない寂しさを募らせる未乃梨。
一方で、千鶴は放課後に「オンブラ・マイ・フ」をもう一度歌って凛々子に聴いてもらうことになり……?
「じゃ、昼練お疲れ様。次の合奏は今やった第三曲の『ドリーの庭』を詰めるみたいだから、その時はまた宜しく」
パートリーダーの三年生はフルートを仕舞うと、二年生の仲谷と未乃梨の顔を等分に見た。
「小阪さん、ピアノありがとう。急にお願いしてごめんね」
「いえ、私もちゃんと勉強しておきたかったので」
未乃梨はピアノの上に出した譜面を畳むと、ピアノの前から立ち上がった。
「にしても、小阪さんってピアノも得意なんだね。『ドリーの庭』の伴奏、すっごく柔らかい音で素敵だったよ」
「……ありがとうございます。それじゃ、また放課後に」
複雑な気分で、未乃梨は上級生たちに頭を下げて一礼した。
(千鶴が弦バスを弾いてたらって想像しながら弾いてたら、結構上手くいっちゃうのよね)
音楽室を出て、未乃梨は教室へと急いだ。
(五限目の古文の先生、いつもちょっと遅れるんだけど……早く戻りたいな)
未乃梨は何故か千鶴の顔を見たくなっていた。部活で楽器が初心者の千鶴がコンクールに出るメンバーに含まれていないこともあって、このところ未乃梨は千鶴とは一緒にいられる時間が明らかに少なくなっている。以前、昼休みに未乃梨が千鶴に告白した手前、未乃梨は千鶴と一緒にいづらいと思うことがなくもなかった。
(……でも、同じクラスでいられるのって、やっぱり安心しちゃうんだよね)
一年四組の教室に入ると、未乃梨は席に座ったままスマホにイヤホンを繋いで何かを聴いている千鶴と目が合った。耳からからイヤホンを外しながら古文の教科書やノートを出す千鶴に未乃梨は小さく手を上げると、千鶴も無言で小さく手を振ってくれる。
(あの告白の返事はまだだけど、……やっぱり嬉しいな)
未乃梨は自分の席につくと、少し前の方の席の千鶴の後ろ姿を見ながら五限目の授業の準備をした。先程まで音楽室で他のフルートのパート員に合わせてピアノを弾いていた、「ドリーの庭」の優しい風合いの和音が未乃梨の中に浮かぶ。
(早く、来年にならないかな。その時は、きっと千鶴と一緒にコンクールのステージに立って、千鶴の弦バスに合わせて私がフルートを吹いて――)
そう思うと、眠くなりそうな昼休みの次の授業も、未乃梨はしっかり受けられそうな気がするのだった。
放課後になって、千鶴は音楽室からコントラバスを持ち出すと、フルートのパート練習に向かう未乃梨を見送った。
「未乃梨、行ってらっしゃい。コンクールの練習、頑張ってね」
「千鶴も。発表会、ソロも合奏もあるんだから、しっかりね」
未乃梨と別れてから、千鶴は二年生の教室がある階に向かった。いつもの空き教室には凛々子がいるはずだった。
千鶴が探すまでもなく、凛々子は自分から声をかけてきた。
「千鶴さん、こんにちは。じゃ、始めましょうか」
「よろしくお願いします。ちょっとやってみたいことがあって」
空き教室の床にコントラバスと自分のスクールバッグを置いてから、凛々子に「オンブラ・マイ・フ」の楽譜を見せた。
「この曲、ちゃんと歌えるようになってからコントラバスで練習してみたいって、思うんですけど……どうでしょうか」
凛々子は「ふむ」と特に驚いた様子もなく頷いた。
「じゃ、今日の練習の前半は楽器なしでやりましょう。ちょっと、準備するわね」
凛々子はワインレッドのケースからヴァイオリンを出すと、音叉を膝で叩いて調弦を始めた。ヴァイオリンの五度の開放弦が手早く心地良い響きに整えられていく。
凛々子は調弦を終えると、そのままヴァイオリンで長調の音階を弾いてみせた。
「これ、今度千鶴さんが弾く、『オンブラ・マイ・フ』のニ長調ね。まず、発声練習代わりにこの音階を私のヴァイオリンとラララで一緒に歌ってみて」
凛々子のヴァイオリンに合わせて、千鶴は三回ほど、ニ長調の一オクターブの音階を登ったり降りたりした。一つの音につきゆっくりとした四拍の四拍子で、朝に歌ったときよりしっかりと声を伸ばせそうだった。
「千鶴さん、ちゃんと声帯を鳴らせているわね。それじゃ、歌ってみましょうか」
「よろしく、お願いします」
「私はピアノ伴奏の右手をヴァイオリンで拾うから、四小節弾いたら入って」
千鶴は少し緊張した面持ちで、しっかりと息を吸ってから、ヴァイオリンを弾く凛々子と同じ楽譜を見ながら歌い始めた。
できるだけ力まずに、千鶴は歌った。最初の「Ombra mai fu」の長い音を含むフレーズは、弱い声で入ってややクレッシェンド気味にゆっくり盛り上がってつながっていく。朝に試しに歌ったときよりは、悪くない形で千鶴は「オンブラ・マイ・フ」を危なげなく歌い切った。
凛々子は顎にヴァイオリンを挟んだまま、納得した様子で頷いた。
「ふむ、今の歌い方、なかなか良かったわよ。それじゃ、今のを忘れないうちに、コントラバスで弾いてみましょうか」
「はい」
千鶴は短くしっかり返事をすると、コントラバスを起こして調弦を始めた。
(続く)




