♯111
レッスンの後で発表会の衣装を着た千鶴の画像を見た凛々子、部活の後で同じ千鶴の画像を見た未乃梨。二人の千鶴への印象は変わっていって……。
その日の午後は、凛々子のヴァイオリンのレッスンだった。
ブラームスの協奏曲のフィナーレに現れる、ヴァイオリンの複数の弦を豪快に掻き鳴らすような重音奏法や、三十二分音符の音階や分散和音が転がって跳ね回るようなパッセージが何度も交代するように現れるのを、凛々子は何とか捌き切った。
「一年間、よくここまで仕上げて来たね。……しかし、つくづく勿体ない」
「多口先生、……何かいけなかったでしょうか?」
凛々子は顎に挟んでいたヴァイオリンを下ろすと、前髪が薄い痩せた男性の教師に小首を傾げた。
多口は薄くなった髪に手をやりながら、「いや、そういうことではないんだけれど」とやや苦みを含んだ笑みを浮かべる。
「仙道さん、君が吉浦先生に推挙されてあのオーケストラのコンサートミストレスを引き受けていなかったら、どこかのコンクールを受けさせたかったよ」
多口に、凛々子は片目をつむって微笑を返した。
「私、ソロ以外にヴァイオリンでやりたいこと、沢山ありますから。大学に受かったら、室内楽もオケも弦楽合奏もたくさんやりたいんです」
「全く。ヴァイタリティの塊だね。君がオーケストラに熱中しているせいで、有坂さんがまた嫉妬していたよ。私よりオケが大事か、ってね」
薄い苦みを含めたまま、多口は凛々子に頷いた。
レッスンを終えてヴァイオリンや楽譜を仕舞った帰り際に、電源を戻した凛々子のスマホがメッセージの着信を告げた。
「すみません、多口先生。……あら、いい衣装見つけたわね」
凛々子は目を見張った。
スマホに届いたメッセージは千鶴からで、そこには白いフレンチスリーブのブラウスにマキシ丈の黒いフレアスカートを合わせた姿を自宅らしき場所の姿見に映した画像が添付されていた。
「どうしたね?」
「ちょっと、九月にユースオーケストラのメンバーで出る発表会でヴィヴァルディをやるんですけど、一緒に演奏する友達が本番の衣装を揃えてきたらしくて」
凛々子が差し出したスマホを見て、多口は眉をやや動かした。姿見に映りこんだ学習机の椅子らしい背もたれは、白いブラウスに黒いスカートの少女の腰回りより明らかに低い。
「ふむ。この子、鏡に映っている椅子からすると随分背が高いようだが……楽器は?」
「コントラバスです。私と同じ高校の子で、放課後にちょっと教えてあげてるんですけど、身長は一八〇センチ近くあるかしら。いい感じに上達してますよ」
「ひゃ、一八〇センチ!? 男性でもなかなかいないぞ?」
「でしょう? その子まだ初心者ですけど、秋の発表会で一緒に弾くの、楽しみなんですよ。それでは、来週のレッスンで、また」
「全く。君という子は。有坂さんがまた黙ってはいないぞ?」
多口は、微笑みながらレッスン室を辞する凛々子を、苦みの抜けた顔で見送った。
部活の木管楽器だけの分奏が終わったあとで、学校の音楽室の譜面台や椅子を片付けている未乃梨のスカートのポケットからバイブレーションの音が鳴った。
「誰だろ。……ええっ!?」
未乃梨は片付けをする手を止めると、メッセージの着信があったらしいスマホに見入った。
その画面には千鶴からのメッセージが届いており、それには白いフレンチスリーブのブラウスに黒いマキシ丈のフレアスカートを着た、千鶴の姿が写っている。
(発表会の衣装、ってメッセージに書いてある……これを着て出るってこと? 千鶴がこんな可愛いブラウスを着て、制服以外のスカートで人前に!?)
スマホを手に立ち尽くす未乃梨の後ろから、ぶっきらぼうな声と呑気そうな声が続けて投げかけられた。
「おーい、小阪さーん。まだ片付け終わってないぞー。……お、それ江崎さん? 先生見て下さいよこれ」
「ふーむ、マチネの衣装ですかな? うちの定期演奏会でも、こういうのありですねぇ」
未乃梨の背後から、いつの間にか背伸びしているサックスの高森と顎に手を当てた顧問の子安がのぞき込んでいた。
未乃梨は二人に気付くと、慌てて振り向いてからスマホを後ろ手に隠した。
「あ、あの! べ、別に変なものを見てたとか、そういう訳じゃなくて! その、千鶴って制服以外でスカートほとんど穿かないし、それ見るのが楽しみとかそういうことじゃなくて!」
「あのさー、小阪さん、自分から全部ゲロってどうすんのさ。こりゃあ瑠衣と会った時に話すネタが増えそうだねえ」
呆れ気味にメッシュの入ったボブの髪を掻く高森に、子安も頷いた。
「その様子ですと、江崎さんはまた学校外で演奏する用事ができたようですねえ。やはりコントラバスは吹奏楽以外では引っ張りだこになるんだなあ」
「あ、そうなんです子安先生。千鶴がソロで私がピアノ伴奏をやる曲もあって」
呆れている高森の前を遮りながら、未乃梨は弁解をするように子安に作り笑顔を向けた。その未乃梨を、他の木管パートの部員が取り囲み始めていた。未乃梨が後ろ手にしたスマホを、他の部員も覗き込んでいる。
「なになに? 小阪さんどうしたの?」
「これ、弦バスの江崎さんだよね? 良いじゃん、オトナ可愛い感じで」
「江崎さんって最近いい感じに女の子らしくなってってない? やっぱり小阪さんの影響?」
「ちょっと? みんな勝手に私のスマホ見ないでよ!?」
一気に騒がしくなった音楽室で、未乃梨は当惑したような声を上げた。
(続く)




