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♯110

「ドリー組曲」の「子守唄」で、子安の指導方針の根幹を垣間見る未乃梨。

一方そのころ、千鶴は発表会の衣装を揃えていて……。

「では改めて。皆さん、お静かに、お願いします」

 ピアノの前に座っている子安(こやす)は、そっと右手でキューを出した。

「ドリー組曲」の「子守唄」の前奏に現れる、穏やかな分散和音の伴奏をクラリネットやサックスと一緒に二小節だけピアノで弾くと、その後は子安は四分の二拍子を、木管楽器のみの分奏の邪魔をしないように、指揮棒を持たない右手でつとめて小さく振った。

 未乃梨(みのり)は子安の右手を見ながら、「子守唄」の旋律をフルートで吹き始めた。息はできるだけスピードが出ないように、冬に冷えた手を温めるような息をフルートに吹き込むつもりで吹くと、クラリネットのソロとユニゾンで重なる「子守唄」の旋律が更に穏やかになる。

 伴奏で入る他のクラリネットやサックスは、画用紙やキャンバスに淡い色の絵の具をできる限り薄く伸ばすような、発音できるぎりぎりの弱い音で未乃梨ほかの高音の木管楽器を支えていた。普段はどんな曲でも苦もなく吹きそうな高森(たかもり)ですら、明らかにピアニッシモで吹くのに苦労しているらしく、いつもより厳しい表情でアルトサックスを吹いている。

 少し離れた場所に座るクラリネットパートの方から辛うじて聴こえるクラリネットのソロを必死で聴き取ろうとして、未乃梨は神経をいつもの合奏や分奏の倍ほどは研ぎ澄ませた。

(……クラリネットってこんなに小さい音を楽に出せるんだっけ……? これじゃ、私のフルートだけが聴こえてちぐはぐになっちゃう)

 息がいつもより余り気味になって目を白黒しかけている未乃梨のフルートに、ユニゾンで重なるソロのパートがクラリネットからオーボエへと移り変わって一区切りつく辺りまで進んだところで、子安は指揮を止めた。

「皆さん、今の演奏、自分がどんな息のコントロールで吹いたかを、頭の片隅に置いておいて下さい。響きのイメージはフォルテになっても今の柔らかいままで大きくは変えないように」

 音楽室の中は、コントロールの難しいピアニッシモで二十小節足らずを吹いた部員のどよめきが砂煙のように漂った。未乃梨も、いっときフルートを膝に置いてから、肺に余った空気をゆっくり抜くように、すうっと吐いた。

 クラリネットパートの男子生徒が挙手をした。

「子安先生、今のピアニッシモ、腹筋キツいんですけどトレーニングとかしたほうがいいんですか?」

「結論から言うと、必要ないんですよ」

 子安は頭を掻きながら返答した。

「そもそも、呼吸のときに使う筋肉は外から見る分でもお腹や背中や腰など沢山ありますし、肋骨を支える身体の内側の筋肉なんかも関わってきます。筋トレが無意味とは言いませんが、例えば腹筋を鍛えれば呼吸がうまくいくとかそういう単純な話ではないのですよ、困ったことに」

 再び、音楽室の中がどよめいた。子安はピアノの前に座ったまま、「そもそも、これは金管楽器のみんなにも伝えたことなんですが」と前置きしてから分奏に集まっている木管楽器のパート員を見回した。

「管楽器の演奏に、みんなの知っている腹式呼吸が本当に必要なのかどうか、ということもちょっと考えておいてほしいんですよ。例えば、体育館やグラウンドで激しい運動をするバスケ部やサッカー部と、ホールで演奏する皆さん吹奏楽部で同じトレーニングが本当に必要かどうか、ということでもあるんです」

 今度は音楽室の中が、一斉に静まり返った。未乃梨も、隣に座る上級生の仲谷(なかたに)と、顔を見合わせた。

(うちの吹部、グラウンドを走ったり腹筋をやったりとかのトレーニングはやらない方針だって子安先生走った言ってたけど……そこまで考えてたの?)



 思ったほど時間のかからなかった母親との買い物から戻ると、千鶴(ちづる)は紙袋の中のスカートやブラウスを自室のクローゼットに仕舞おうとして、三枚ほど買った白のブラウスのうちの一枚に目を止めた。

(あれ? こんな可愛いブラウス買ったっけ)

 千鶴はそのブラウスをベッドに広げてみて、思い出した。千鶴は母親にこう言われてこのブラウスを買うことになったのだった。

「発表会って九月でしょ? まだ暑い時期だし、こういうのもいいんじゃない」

 そのブラウスは、袖が肩を覆う程度のフレンチスリーブで、腕は動かしやすそうだ。ウエストもやや絞ってある仕立てになっていて、スカートとも合わせやすそうなデザインになっている。

(……ちょっと、着てみようか)

 千鶴は、Tシャツを脱ぐとそのフレンチスリーブのブラウスを着てみた。

 姿見に映すと、腕が付け根以外全て丸出しになるわりに、かっちりと清楚な雰囲気になるのが不思議ではある。

(ええっと、これでスカートを穿いたら……)

 千鶴は、紙袋の中に二着入っているうちの片方のスカートを取り出した。裾が広がるAラインの、マキシ丈の黒いフレアスカートで、「普段使いでもおすすめですよ」と店員の女性に勧められたものだった。

 そのスカートを千鶴が穿いてみると、フレンチスリーブのブラウスに良く合っているような気がした。千鶴の背丈もあってスカートが膨らむ割に全体的にやや細く見えるのも悪くないように思える。

 千鶴はブラウスとスカートを着た自分を姿見に映すと、スマホで二枚ほど撮った。一枚は正面から、もう一枚はやや斜めに姿見に映るようにして撮ると、千鶴はその画像をスマホからメッセージで送った。

(まずは伴奏をしてもらう未乃梨と、一緒にヴィヴァルディを弾く凛々子(りりこ)さん……これでよし、と)


(続く)

 

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