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♯108

発表会に向けての準備にそろそろ取りかかる千鶴、コンクールの曲のためにピアノに向かう未乃梨。

それぞれの楽器を手にしていない時も、やることはありそうで。

 自室のカーテンの隙間を抜けて入ってくる朝の陽射しで、未乃梨(みのり)は目を覚ました。

 枕元のスマホの時計を見ると、コンクールの練習で早めの朝練に行く日の起床時間を示している。

(あ、今日は日曜日で部活の練習も午後からだっけ)

 今日が早起きをしなくてもいい日だと気付くと、未乃梨はベッドの中でゆっくりと全身を伸ばした。昨晩の就寝が遅かった割に、未乃梨の寝覚めはすっきりと早かった。

 枕元に置かれたスマホはメッセージのアプリを開いたままだった。そこには昨晩の織田(おりた)とのやり取りの最後の方が表示されている。


 ――千鶴には、告白したけど、返事を待ってもらってるっていうか

 ――大丈夫。誰にも言わないから。何なら、相談に乗るよ。同じ学校の人だったら、話せないこともいっぱいあるだろうし

 ――今はちょっと、考えがまとまらないです。話せそうになったら、またお願いします

 ――わかった。考え過ぎないでね。それじゃ未乃梨ちゃん、おやすみ


(ゆうべ、瑠衣(るい)さんに遅くまで付き合わせちゃったな)

 未乃梨は、眠りにつく直前にやり取りをしたと思われる、記憶が曖昧な後ろ二つのメッセージを見た。未乃梨は、ベッドからゆっくり身体を起こすとスマホを手に取った。


 ――おはようございます。ゆうべはメッセージありがとうございました。瑠衣さんも練習、気を付けて行ってきてくださいね


 未乃梨はベッドから出て、もう一度大きく伸びをした。日曜日は決まって起きるのが遅い未乃梨の父はまだ布団の中だろう。

(たまには父さんにコーヒーぐらい、淹れておこうかな)

 寝間着から普段着に着替えると、未乃梨は自室を出た。階下から聞こえる、洗面台の水音は母親だろうか。

(さーて、午後から頑張るか)

 父親を起こさないように、未乃梨は静かに階段を降りた。



 一方その頃、千鶴(ちづる)は母親から予想もしていなかったことを告げられた。

 台所に立ってガスレンジの上のフライパンの中を菜箸でかき混ぜる千鶴に、母親は冷やした水出しの緑茶の入ったピッチャーを冷蔵庫から出しながら告げた。

「そうそう千鶴、あんた今度何とかって音楽会を聴きに行くんでしょ?」

「星の宮ユースオーケストラね。何かあった?」

「あんた、音楽会を聴きに行くのに何着てくの?」

「何って……いつものパンツとかシャツだけど」

 千鶴の母親は、「まあ」と腰に両手を当てた。

「もう高校生なんだし、そういう場所に行くならちゃんとした格好で行きなさいな。スカートぐらい買ってあげるから」

 千鶴は、フライパンの中の焼きそばを三人分の皿に取り分けながら、渋い顔をした。

「ちゃんとした格好って……」

 言い淀む千鶴に、母親は畳み掛けた。

「夏休みが明けたら発表会もあるんでしょう? その時に着る服だっているし、そういうのって大人になる前に揃えないとね。あんたも立派な女の子なんだから」

「はーい……」

 千鶴は食卓に焼きそばを運んだ。母親は外にいる父親を呼びに行った。

「父さん、お昼できたわよ。あと、午後からちょっと出るから、車使うわね」

「おお、ありがとさん。んじゃ、わしゃ家で留守番だな」

 のんびりとしたやり取りが庭から聞こえて、千鶴は箸とグラスを出しながら気まずい顔をした。

(え? 服を買いに行くのって今日なの?)



 未乃梨は早めに学校に着くと、練習が始まるまで音楽室のピアノの前に座った。

(吹奏楽部に入ったのに、ピアノも練習しなきゃいけないなんて思わなかったなあ……)

 直近で使う楽譜をまとめたクリアファイルをスクールバッグからピアノの譜面台に出すと、未乃梨は「ドリー組曲」の原曲の楽譜を広げた。クリアファイルの中で「ドリー組曲」の後ろに入っていた「オンブラ・マイ・フ」の楽譜が、未乃梨の目に入る。

 クリアファイルの表面には高校に入って間もない頃に千鶴と撮った、プリントシールも貼ってあった。

(そういえば、次に千鶴と一緒に演奏するのって、凛々子(りりこ)さんのところの発表会のピアノ伴奏だっけ)

 何とはなしに、未乃梨は淋しさを覚えつつピアノを弾き始めた。第一曲の「子守唄」は弾く気にならず、未乃梨は別のページを開いた。

 未乃梨は、第四曲の「キティ・ヴァルス」を弾き始めた。穏やかな左手の三拍子のサイクルと、時折転がるように動く右手のパッセージが未乃梨の気分を優しく慰めてくれるような気がした。

 ピアノを弾きながら、未乃梨は楽譜の左手のパートを見直した。三拍子の一拍目に入ったかと思えば、二小節を三分割するシンコペーションを生み出して、ワルツの旋律をエスコートするような低音の動きが、この場にいない人物を思い起こさせた。

 未乃梨の左手のパッセージは、弾くたびに穏やかで柔らかくなっていた。その低音のリズムは、中学時代に自分を自宅まで送り届けてくれた千鶴の手を思い起こしながら弾いていた。

(千鶴がコンクールに参加してたら、こんな風に弦バスで伴奏してくれるのかな)

 未乃梨の淋しさは、ピアノで「キティ・ヴァルス」を弾くうちに少しずつ和らいでいった。


(続く)


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