♯106
凛々子と、千鶴と、そして未乃梨。
三人の少女たちはそれぞれに思いを抱えたまま夜を迎えて。
星の宮ユースオーケストラの見学に千鶴を招いたその日、凛々子は紫ヶ丘高校の最寄り駅で降りると、改札へと足を進めた。
途中、ホームから降りる階段で、凛々子は見覚えのある姿とすれ違った。
西の空がやっと赤みを差す程度の陽射しの中で明るく映える、リボンでハーフアップにまとめた色素の薄いセミロングの髪に、学校指定のスクールバッグと細長い何かのケースを肩に提げた姿が、人混みの中に紛れて流れていく。
(今のは……きっと、そうだわ)
凛々子は振り返りもせずに、駅の改札を出た。
(未乃梨さんと私、最後に千鶴さんの隣にいるのは、どちらかしら)
凛々子は駅からすぐ近くのバス停まで来ると、赤みがやっと少しずつ強まっていく空を一度見上げた。
(……そんなことより、これから私が千鶴さんに何を教えてあげられるか、よ)
程なくしてやってきたバスに乗り込むと、凛々子は「調和の霊感」の第八番を頭の中に浮かべた。幼少の頃にレッスンで学んで以来何度もヴァイオリンで弾いてきたその曲は、凛々子の中で財産になっている。
(そして、いつか千鶴さんが私の指導から離れて、対等な演奏者としてステージに上がる時が来たら、私は)
バスに揺られながら、凛々子は「調和の霊感」の第八番の総譜のページを、頭の中でめくり始めた。暗譜している総譜の一番下に書かれている通奏低音を、千鶴が誰かの演奏するチェロや鍵盤楽器と合わせている姿を想像するのは、今の千鶴にはあまりに容易い。
(パッヘルベルにバッハにヴィヴァルディに……次に千鶴さんと一緒に弾く曲は、誰の作った曲かしらね)
凛々子は何人かの作曲家の名前を頭の中に浮かべては、その作品に参加する自分と千鶴の姿を思い浮かべる。その場所は、千鶴を管楽器や打楽器が囲む吹奏楽ではなさそうだった。
千鶴は歯を磨いて自室に引っ込むと、寝る前に凛々子からスマホに送られた「オンブラ・マイ・フ」のファイルと、紙の楽譜で受け取ったヴィヴァルディの「調和の霊感」の第八番の楽譜を開いた。
(この二曲、大丈夫かなあ)
まず、「オンブラ・マイ・フ」は、千鶴が同じ曲名をスマホの動画サイトで探した結果、ゆっくりとしたテンポの歌の曲だというのはすぐに理解できた。凛々子から送られてきた楽譜のファイルには、どこの言葉かも分からないアルファベットの歌詞らしきものが振られていて、そこで千鶴は首を傾げざるを得なかった。
(そういえばこの曲、元はオペラか何かで歌う曲なんだっけ? でも、どうして? コントラバスで弾くのに何で歌詞なんかが書いてある楽譜を送ってきたんだろ?)
一方で、一度、凛々子と合わせたこの曲の第三楽章の冒頭部分は、その時は上手くいった。とはいえ、これが合奏となるとどうなるか、今の千鶴には見当をつけるべくもない。
(これ、ヴァイオリンから始まってヴィオラが来て、最後に低音、なんだっけ)
千鶴が見ている楽譜のページの端には、「Violoncello e Contrabasso」と書かれていて、この明らかに英語ではないアルファベットの並びが何を意味するのかは、千鶴にも何となく察しがついた。
「調和の霊感」の第八番は、前の二つの楽章も厄介そうに見えた。
第一楽章は調号がついていない楽譜であるにも関わらず、臨時記号のシャープが付く箇所があちらこちらにあって、指づかいを間違えないか心配になる。第二楽章は何小節も休みが続く箇所があって、出番で入りそこねてしまわないかが思案のしどころになりそうだった。
千鶴は第一楽章で臨時記号のシャープの入る場所を見直した。凛々子に教わった、イ短調の旋律的短音階に含まれるFisとGisが頻繁に現れているのは何となく理解できたが、しばらく進むと今度は妙な場所で臨時記号のシャープが付く小節に出くわした。
(何だこれ? D……Cis……H……A…G…F……E……D……え? Cis!?)
その、フレーズの中で突然現れた場違いなように見えるCisの音は、千鶴を混乱させた。しかも、そのCisが含まれる一連のフレーズは全体としては下降する音階のような形になっており、これとそっくりなものが第一楽章の初めに一度現れていて、そちらには一度確認したFisとGisを含んでいた。
(こっちは旋律的短音階、っていうのは分かったけど、こっちのCisは何なんだろう? この中でシャープがついているのはここだけだし)
千鶴は寝る時間を過ぎてからも、しばらく考え込んでしまった。
未乃梨は、風呂から上がると自室で凛々子からスマホに送られてきた「オンブラ・マイ・フ」の楽譜のファイルを見直した。
未乃梨が持っている曲集とは違う、シャープ二つのニ長調に移調された楽譜に、凛々子が千鶴に何らかの配慮をした形跡が見て取れた。
(そういえば、「あさがお園」でやった曲もニ長調が二曲だったっけ。……千鶴が弾き慣れてる調、ってことなのかな)
凛々子がこのところ、千鶴に接近しているように未乃梨には感じられる。弦楽器奏者同士だからということを差し引いても、逸れが未乃梨には、やはり釈然としないものがあった。
未乃梨はスマホを枕元に置くと、ベッドに腰掛けた。部屋の灯りを消そうとしたとき、スマホがメッセージの着信を告げた。
(こんな時間に誰だろう……あら?)
メッセージは思いがけない相手からだった。送信してきたのは、部活の後で未乃梨が高森と一緒にカフェで会った、織田からだった。
(続く)




