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♯103

本条や凛々子や智花から、その場で弾いたコントラバスを賞賛される千鶴。

オーケストラの練習の帰り道に、凛々子は千鶴にある決心を伝えて……。

「第九」の歓喜の主題を弾き終えた千鶴(ちづる)は、放心したように本条(ほんじょう)の五弦のコントラバスを支えていた。改めて、そのコントラバスを支える感覚が、学校で弾いている楽器より明白に重く感じられた。

 周りからの拍手に気付くと、千鶴は急に我に返ったように本条のコントラバスを元々立て掛けてあったパイプ椅子に戻した。

 千鶴は借りた弓を緩めると、本条に返して一礼した。

「あ、あの、弾かせて頂いてありがとうございました」

「そう固くならなくても大丈夫だよ。コントラバス弾きはどこに行っても仲間なんだから、ね。それと今の『第九』、良かったよ」

「千鶴ちゃん、凄いじゃん。プロに仲間って言ってもらってさ」

 千鶴の側に近寄ってきた智花が、軽く肘で小突いた。

 凛々子も、腕を組んでくすくすと笑う。

「天下の菅佐野(すがさの)フィルの副首席に認められるなんて、なかなかね」

「え……本条先生って、もしかして……?」

「ええ。プロのコントラバス奏者よ」

「ええええ!?」

 目を丸くして声を上げた千鶴に、本条は「まあまあ」と困ったように笑った。

「その副首席になったのもほんの最近さ。うちの子供が幼稚園に入るまで、演奏活動もなかなか本格的にできなかったからね」

「ええっと、お子さんもいらっしゃるなんて……ひえぇ」

 千鶴は改めて嘆息した。気さくに接してくれる本条の左手の指輪や、しっかりと盛り上がった襟元の開いたシャツの胸元が視界に引っかかって、千鶴は慌てて顔を上げた。

「千鶴ちゃん、本条先生に惚れるなよー。イケメンのピアニストの旦那さんがいる人妻だぞー?」

「智花さん、何言ってるんですかっ」

 智花に混ぜ返されて反論する千鶴に、凛々子がぽんと手を打った。

「それじゃ、発表会は合奏を吉浦先生に見て頂いて、本条先生にも時々千鶴さんの練習を見てもらうってことで、宜しくお願いしますね」

「了解。発表会は私も賛助で出るから、江崎さん、宜しくね」

 本条に握手をもとめられて、千鶴は慌てて応じた。その手は、千鶴が想像していたより小さくて、ずっと温かく柔らかだった。



 ディアナホールを出ると、外はまだ明るかった。季節はそろそろ一年で一番昼の長い時期に差し掛かろうとしていた。

 凛々子は「一緒に帰りましょう」と千鶴を誘った。本条が握手を求めてきたのと同じように、凛々子は自然に千鶴に手を預けてきた。千鶴も、自分や本条より更に小さく細い凛々子の手を受けて、エスコートするように一緒に歩いた。

 凛々子は今日は濃いめの青紫のマキシスカートにクリーム色の七分袖のカットソーという、大人びた服装だった。揃えたように同じ長いスカートを穿いているのが、千鶴には少し面映ゆい。

 駅の改札を通る時以外は、凛々子は千鶴に手を預けたままだった。千鶴はホームで電車を待つ間、気恥ずかしさを紛らせようと話題を探した。

「あ、あの。今日練習でやってた曲、何か凄かったですね」

「『グレート』ね。本条先生に来ていただけて助かったわ」

「本条先生って、やっぱり凄い人なんですよね?」

「そうね。千鶴さんも、あんな風になってみたくないかしら?」

 いたずらっぽく問いかけてくる凛々子に、千鶴はたじろいだ。それに構わず、凛々子は続けた。千鶴に預けた手を、自分からそっと握り返しながら。

「千鶴さん。私ね、あなたの練習に今まで付き合ってきて、思ったことがいくつかあるの」

「それって……何でしょうか」

「最初に、バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』を合わせた時、あなたのコントラバスは優しい音がする、って思ったわ。次に、『あさがお園』で一緒に演奏して、あなたは優しいだけじゃない、頼もしい演奏者だって確信したの」

 凛々子はゆっくりと千鶴の目を見た。

「率直に言うわ。私は、星の宮ユースオーケストラの演奏者として、あなたに来てほしい。そして」

 そこで凛々子は言葉を切った。一緒に乗る帰りの方面の電車がいつの間にかホームに停まっていて、それは発車ベルとともにホームを発っていった。

「私は、仙道(せんどう)凛々子個人として、あなたとこれからも一緒にいたいの」

 真っ直ぐに自分を見つめる凛々子から、千鶴は目をそらすことができなかった。

「凛々子さん、それは……」

 千鶴は、やっとのことで言葉をつないだ。その間、自分の手をそっと優しく握っている凛々子の手から、千鶴は離れられなかった。

「両方とも、返事は急がなくていいわ。うちのオーケストラのことは発表会のあとでいいし、私のことはもっと後で構わないもの。でも私はあなたをひとりの演奏者として、ひとりの女の子として、どう思っているかはっきりさせておきたいの」

「凛々子さん、どうしてそこまで……?」

「……だって、千鶴さん、他の女の子にもてるんだもの。誰かに先を越される可能性があるなら、私から動くまでよ」

 あくまで穏やかで、珍しくどこか不安を微かに滲ませた凛々子の声は、千鶴には抗いがたいものがあった。千鶴の中で、リボンでセミロングの髪を結った未乃梨(みのり)の顔が、はっきりと何度も明滅していた。

(凛々子さんと未乃梨……私が選ばなきゃいけないの……!?)

 千鶴の胸の奥の鼓動が急速に高まって、その言葉を失わせた。


(続く)

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