♯102
凛々子の所属するユースオーケストラの指導者の吉浦や、本番の演奏に参加するというコントラバス奏者の本条と出会う千鶴。
本条の意外な提案に、千鶴は躊躇して……?
「では、仙道さんと浅井さんも、江崎さんが合奏練習でついていけるようにサポートしてあげなさいね。特に仙道さん、それもコンミスの職務ですよ」
チェロをケースに仕舞い終えると、吉浦は自分より少し背の高い凛々子や智花と、遥かに背の高い千鶴の顔を順繰りに眺めた。かと思うと、吉浦は上品に微笑みながら、千鶴のずっと後ろに声を投げかけた。
「何なら、あなたが教えて差し上げてもよろしいのですよ。コントラバスの本条先生?」
千鶴と凛々子が振り向くと、チェロパートの少し後ろで弓を緩めようとしていた、コントラバスパートの先頭で弾いていたあの女性が少しだけばつが悪そうに笑っていた。
「吉浦先生のお申し付けとあれば、よろこんで」
その千鶴の倍ほどの年齢の、ラフなシャツにデニムのパンツを合わせた出で立ちの女性は、弓を持ったまま、千鶴や凛々子や智花のいる方へと歩み寄ってきた。
「ええと、江崎さんだっけ。初めまして、コントラバス奏者の本条舞衣子です」
千鶴は、年下の自分に丁寧に会釈するその女性にほんの二秒ほど見入ってしまった。
凛々子や智花よりはやや高く千鶴よりは低い背丈。肩にかかる程度の少しウェーブがかった髪。やや丸みを帯びた肩のラインからつながるしっかり筋肉のついた二の腕と襟元を開け気味にしたシャツを盛り上げる胸元。くびれから柔らかに円く広がる腰のラインとすらりと伸びる脚。そして、コントラバスの弦を抑える左手の薬指に控えめに光る指輪。
優し気でどこか頼もしさも感じる本条舞衣子という女性に、千鶴は好感以外の感情を持てなかった。
「あ、江崎千鶴です。高校の吹部で、コントラバス始めたばっかりです」
ぎくしゃくと事故紹介をする千鶴に、本条は親友にでも接するような笑顔を見せた。
「そうだ。江崎さん、折角だし、弾いてみるかい?」
「え……? 弾いてみる、って……?」
「あれだよ。私のコントラバス」
唐突な申し出に躊躇する千鶴に、本条は自分の後ろを親指で指し示した。そこには、パイプ椅子に斜めに寝かせるように置かれたコントラバスがあった。
「その、……いいんですか?」
「構わないよ。あ、こいつを使って」
本条は何の屈託もなく持っていた弓を差し出して、千鶴を自分が先ほどまで弾いていたコントラバスまで連れていった。
その本条のコントラバスを間近に見て、千鶴は少し尻込みしそうになった。
弦は全部で五本の弦が張られていて、千鶴が学校で弾いている楽器より一本多い。その一番低い側の弦は、その学校の楽器の一番下のE線より明らかに太かった。
「それじゃ……失礼します」
千鶴は、本条の五弦のコントラバスのエンドピンを自分の背丈に合わせて伸ばしてから、改めて構えてみた。普段の楽器より弦が一本多いわりに、ネックも胴体も太くは感じなかった。ただ、楽器のヘッドから弦を支えているブリッジまでが妙に長いようにも感じる。
千鶴は指使いに覚えのあるニ長調で、その楽器を鳴らしてみた。順番に鳴らすスケールは、上から四本目の開放弦の音までは聞き覚えのある高さだったが、そこを過ぎて一番低い弦に差し掛かると、この世のものとは思えない低い音がした。
そして、千鶴には音の高さ以外に気付いたことがあった。
(この楽器、めちゃくちゃ振動してる!? 弦も、ネックも、胴体も!? 弓もなんか普通じゃないし!?)
本条のコントラバスの音は、学校の音楽室より遥かに広いディアナホールのリハーサル室の空気をすっかり千鶴が出した音で染め上げてしまっていた。千鶴の立っている床すらも、楽器のエンドピンから伝わる振動で千鶴が今日穿いてきたレイヤードスカートに重ねられたチュールの生地を揺らしてしまいそうだった。
千鶴が本条から渡された弓も、学校で使っている弓とは違った。見た目こそ長さや弓の毛の幅は変わらないように見えるのに、その弓は千鶴が使っている弓より明らかに重く、弦に触れた時に妙に強い抵抗があった。その抵抗感を支えに弦を擦ると、「グレート」の練習で聴いたのと同種の、あまりに力強い響きが鳴った。
千鶴はふと思い付いて、コントラバスのD線を押さえてから、ゆっくりと息を吸い込んだ。
(Fis……Fis……G……A……A……G……Fis……E……、D……D……E……Fis……Fis……E……E……)
千鶴の息遣いが弓に、弓の運びが弦に、弦の振動が音の流れにとエネルギーをじっくりと伝えていく。その流れが、リハーサル室の中を燃え盛る焚き火が周囲に暖かさを伝えるように、リハーサル室の隅々まで届いた。
千鶴がコントラバスで弾いている曲に、本条が少し目を丸くしつつ、満足そうに頷いた。
(ベートーヴェンの「第九」か。これを弾くなんて、なかなか度胸があるじゃないか)
本条はすぐ近くの凛々子や智花が、千鶴の弾く「第九」に少し驚いたように聴き入っているのを見た。そのすぐ側の吉浦でさえも、眉を微かに上げて目を見開いていた。少し離れたヴィオラパートでそろそろ帰り支度を済ませかけていた瑞香や、まだ残っているオーケストラのメンバーの何人かも手を止めて千鶴の弾く「第九」に耳を傾けていた。
たった十六小節の、「第九」の歓喜の主題を、千鶴は弾き終えた。聴いていたものが凛々子や智花を含めて何人か、拍手を千鶴に向けていた。
コントラバスの持ち主の本条すらも、拍手を千鶴に送った。その本条に、吉浦は少し苦い顔をした。
「全く。……なんて荒削りな『第九』なのかしら。あなたの学生の頃より癖があるわ」
本条は、吉浦の顔を興味深そうに見た。
「音程も悪くないしレガートも自己流にしては良く出来たほうだと思いますけどね。にしても吉浦先生、苦い顔の割に嬉しそうですね?」
「癪なことにね。……こんな力強い歓喜の主題、もしベートーヴェンが聴いたら、と思ってしまったわ」
吉浦の表情は、眉尻を上げつつも口角が上がっていた。
「本条先生、まずは江崎さんを発表会までしっかりと鍛えてもらいましょうか。問題は山積だけれども」
本条も、五弦のコントラバスを抱えたまま凛々子や智花や瑞香に囲まれて照れくさそうな千鶴に笑顔を向けた。
「それ、私が学生の頃にご一緒した本番でおっしゃったことと、一緒ですね。お眼鏡にかないましたか?」
「……もう。あなたもそんな減らず口が叩けるようになったのねえ」
吉浦が千鶴を見る視線には、もう苦さは残っていなかった。
(続く)




