♯10
コンクールに向けて動き出す未乃梨と、演奏会を控えた凛々子。
そして、未乃梨に誘われて街まで遊びに出た千鶴が見たのは――。
千鶴と未乃梨が吹奏楽部に入ってから最初の金曜日の夕方、二人は音楽室で待ち合わせた。
コントラバスを片付け終えた千鶴は、木管楽器だけでのセクション練習に参加した未乃梨を待ちながら、凛々子とのその日の練習を思い返していた。
その日は、いつものように凛々子と空き教室に入ってコントラバスを調弦すると、「スプリング・グリーン・マーチ」を軽く通してから休憩に入った。その時に、千鶴は凛々子に尋ねたのだった。
「仙道先輩って、発表会とかでヴァイオリンを弾いたりしてるんですか?」
「ええ。六月に、私が入っているユースオーケストラの本番があるわ」
凛々子はスクールバッグから演奏会のチラシを取り出した。
「星の宮ユースオーケストラ」という団体名の下に、クラシックには疎い千鶴の知らない作曲家や曲の名前がいくつか並ぶ中に、「交響曲第八(九)番 『グレート』」という妙な表記のタイトルがあるのが千鶴の目を引いた。
「何ですか、これ? 番号が二つあるみたいな感じですけど」
「それ、研究が進んで番号付けが繰り上がって、昔の番号を括弧書きで書いてるの。作曲者のシューベルトって作った曲の管理がいい加減だったらしくて、途中で書くのをやめてしまった曲もあるのね。例えば、これ」
凛々子は、ヴァイオリンで暗がりの中でどこかに呼びかけるような三拍子の旋律を千鶴に数小節ほど弾いて聴かせた。千鶴は小首を傾げた。
「何だか、薄暗いっていうか、ちょっと怖いメロディですね」
「そうね。今の、シューベルトが書いた『未完成交響曲』の一部なんだけど、完成しているのは前半の部分までで後は下書きが少しだけ、その後は一切手を着けてないの」
あんまりな逸話に、千鶴は苦笑した。
「それ、途中で面倒くさくなって書くのをやめた、とかじゃ?」
「そうかもしれないわね。その『未完成』の後に書かれたのが、私たちが今度の本番でやる『グレート』ってわけ。明日はその練習だから、メッセージとかはすぐ返事できないかな」
「わかりました」
千鶴は、凛々子が見せたその演奏会のチラシにもう一度目を落とした。演奏会の会場は「県立音楽堂ディアナホール」とあった。
「この会場、街中にある大きいホールですよね?」
「そうよ。練習もここでやっているの。この辺り、よく来るの?」
千鶴は、急速に未乃梨の顔を思い出して、内心気まずさを感じていた。
「……実は明日、この辺りに友達と遊びに行く約束をしてて」
「あら。楽しんでらっしゃいね」
凛々子は、弟妹の相手をする姉のように穏やかに微笑んだ。千鶴は、気まずさを押し隠して「主よ、人の望みの喜びよ」の楽譜を出した。凛々子もヴァイオリンを構え直して、軽く調弦をし直した。
「じゃ、休憩はここまで。今日はバッハを通してみましょうか」
凛々子に連れられるように、千鶴はそろそろ馴染んできたバッハの響きの中に入っていった。
「千鶴ごめん。待った?」
セクション練習を終えた未乃梨が、音楽室の前で待っていた千鶴の前に小走りでやってきた。
「ううん、さっき楽器を片付けたとこ。未乃梨も、お疲れ様」
「ありがと。ねえ千鶴聞いてよ! 私、コンクールメンバーに決まったの」
興奮気味に話す未乃梨に、千鶴も「ええ? 凄いじゃない」と驚いた。
「他は先輩たちと経験者の一年生ばっかりなんだっけ?」
「うん。来年は千鶴も一緒に出ようね!」
「オッケー、頑張るよ。じゃ、そろそろ帰ろうか」
千鶴に手を引かれて、未乃梨はいつものように千鶴と腕を組んで歩き始めた。
次の日の正午過ぎ、未乃梨は約束の時間より二十分ほど早く待ち合わせの駅前に来ていた。春物のワンピースに合わせたお気に入りのヒールのあるサンダルは四月の半ばには少し早いかもと未乃梨は思ったが、その日は抜けるような晴天で、夏を先取りするような陽射しが降り注いでいた。
待ち合わせの五分前、未乃梨が二度目か三度目に前髪を気にしていた辺りで、千鶴が駅前にやってきた。Tシャツに水色のジップアップのフーディを羽織った上半身はまるで男の子のような一方で、デニムのショートパンツから伸びるハイカットスニーカーを履いた長い脚は未乃梨が羨んでしまうほどすらりと綺麗だ。
「未乃梨、お待たせ」
「ううん、いま来たとこ。さっそく、行きますか」
学校の最寄り駅を三つ過ぎた先の駅で、未乃梨は千鶴を連れて降りた。女の子らしいワンピースの未乃梨とボーイッシュな装いで身長が並の男性より高い千鶴は、どこでも人目を引いた。未乃梨がよく来るらしい最初に入ったショップでは、未乃梨は顔馴染らしいスタッフに「お、彼氏さんと一緒?」とスタッフに聞かれて、恥ずかしそうにしつつも満更でもなさそうだった。
「この子、女の子なんだけどスカート持ってないから選んであげたくて。サイズあります?」
「ここまで身長高い子だと短めになっちゃうけど、スタイル良いから色々似合いそうかな。こういうの、どう?」
スタッフと未乃梨は、店の中ほどでいくつかスカートやワンピースをピックアップしていた。
千鶴はふと、その店の窓の外に目をやった。ヴァイオリンケースを肩から提げた後ろ姿が何人か大通りの向こうに見えて、人混みの中に消えた。
(仙道先輩かな……まさかね)
千鶴は、別の女の子のことを一瞬でも考えてしまった自分に気付いて、外から店内に慌てて視線を戻した。
(続く)