8話
冬の少し穏やかな日差しが、薄いカーテン越しに部屋に差し込んでいた。
決して寒がりというわけではないが、流石に季節的にも肌寒い朝は、毛布の温もりに負けそうになってしまう。その誘惑から逃れる様に起きて、うーんと伸びをして、美穂ちゃんの写真におはよう、と言った。
そして、普段はそのままトイレに行ったり、洗面所に行くところを、まず部屋の中で鏡を見て整えるのがここ数日の千夏だ。
今日は金曜日だから、日曜日から考えるともう六日目の朝になる。寝付けないことももう無い。
寝て起きてすぐだから、まだ流石にメイクはしない。でも、寝癖がついたまま、無防備にハジメに見られるのは抵抗がある。同棲という言葉に、少しの憧れは勿論あったし、お母さんの言葉に、え?と言って、抵抗感を見せつつ、ちょっと嬉しかった自分が千夏の中には居た。
でも、共に暮らすということは、良い面も悪い面も見たり見られたりするという事だ。ハジメも千夏も、今お互いにその距離を計りあっていた。
そうすると改めて、ハジメの距離感の取り方に愛を感じたり、こういう風にすり合わせるのってなんか――――と思って悶たりもする。
とは言え何か問題があるわけでもない。
思った以上に、千夏とハジメは二人でいることに慣れていた。それでいて、わかっていたつもりで、千夏はまだハジメの事で知らないことが沢山あったのも新鮮だった。
何より、想像できなかったほど、千夏は、自分がなんというか女である事を物凄く急速に自覚している。恋って凄い、と思った。
月曜日からの生活について思い返してみる。
◇◆
二人だけの生活だ。お互い家に居て何処に居るかはわかる。お風呂の前も声は普通にかけるから、流石にお風呂でばったり、なんてことは無い。
大雨にでも降られればいいのだろうか。よく物語であるようなあれは、普通に暮らしていたら絶対どちらかが狙わないと起こらないのだと知った。
――――うち調べです。だってイベントが起きる気配、無いもの。
朝ごはんは交代にしようと言おうと思ったが、早々に料理面ではハジメの女子力に太刀打ちできない事を悟った千夏は、洗い物のプロになることを決意した。美味しいご飯の前にプライドなど些細な問題だった。
後、作るのは得意なのに、ハジメは実は片付けはそこまで得意じゃなかった。千夏は確かに料理はそこまで得意ではないが、物の配置とか整頓は得意だ。そんなところも、何だかうまくハマっている気がして嬉しかった。
ご飯を食べて、学校には流石に別々に行く。
ほんのり噂を流すように、千夏が朝、駅に居なくても、電車に乗っていなくても、母親が入院して家のことをしないといけないとか、親戚にお世話になっているらしいとか、グループの誰かが回答を持っている状態にはしてあった。
疑問には、答える人がいればそれ以上を人は求めない。
影響力を見誤らなければ、変に使おうとしなければ、飼いならすことはできた。
大体は、千夏が先に出発する。というかハジメは本を読んだりしててギリギリまで学校に行かない。
ハジメの家の近くには、同じ高校に通う子供は居ないことは確認済。とはいえそこまで社交的ではないハジメの言うことだから、入学して以来、同じ制服を見ていないという時間帯とルートを聞いて高校までの道に向かう。
出かける時や、ちょっとした時に、髪や制服をハジメの前で敢えて整えてみせる自分がいた。
そうして、わざと、「どう?」って聞くのだ。
ただ、ハジメから「可愛いよ」という言葉を貰うためだけに。きっとそう言ってくれると思って、その言葉が聞きたくて。
……あざといよ。あざとすぎる、うち。
もしも、友達の女子がやっているのを見たら、目を背けて「あざとい!」って内心で叫ぶレベルだった。
何と、それをしているのは自分である。
恋は盲目とか、恋愛は人を変えるとか、よく話には聞く。ふーんそんなもんなんだ、と思っていたし、自分がそうなるとは思ってもみなかった。
いや、残念ながらちょっと違う。
盲目かどうかというと、自覚している。自覚した上で踏み越えるからこそ、恋愛は人を変えるというのかもしれなかった。
◇◆
今週の学校でのハジメは、千夏を見ないし、喋る機会も無いようにしていた。
千夏は時々、自然を装って目線をやったりしているのに、全く目が合うことは無い。
――――他の女子とは、頻繁じゃなくても普通に、事務的でも会話してるのに。
ちらっと、それについてチクリと刺してみたのは水曜日くらいだったか。
「何かさ、確かに隠してはいるんだけど、ハジメ露骨にうちの方見ないよね? 少し無視されているみたいでちょっと寂しいんだけど」
「学校でもメッセージはやり取りしてるじゃん」
「そうだけどさ、うちは、ちょっとした時とか、それこそハジメが体育でサボってる時とか、ご飯食べてるのとか、目線を向けないで見たりしてるのに、ハジメはこっちに顔を向けようともしないじゃん」
「…………だってさ、見たら、ちょっとこの気持ちが漏れそうで」
千夏の手を引いて父親から逃げてくれたり、背中に庇ってくれたり、格好いい時は無駄に頼りになりすぎるのに、こういう時にはそんな事を、顔を赤くして物凄く照れながら言うのが、ハジメという男の子だった。
内心の千夏が、そんなハジメを押し倒しに行こうとするのを理性で抑える。
「もう、少しくらいは普通にしてよ。逆に避けてるみたいになっても変でしょ? ほら、ちょっと見るだけだから……目が合ったら笑ったりするだけだから」
「うーん、普通か、そうだね。……よし、最大限の努力をするよ。うん、頑張る」
「………………もうー、努力しないとそんなに気持ちが漏れちゃうのかよぉ」
駄目だ、頑張ろうと頷いているハジメがちょっと可愛すぎた。それに完全に甘えたような声になる自分も大分まずかった。
男の子に対して可愛いとか思うのなんて、可愛いって言ってる自分が好きなだけとか思っていた昔の南野千夏、キミは間違ってる。一年後のうちが言うんだから間違いない。
◇◆
放課後、うちは遊びには行けない代わりに、少しばかりの時間をクラスの仲の良い友達グループと過ごす。
うちのグループは、まぁ派手すぎるギャルではないけれど、綺麗だったり可愛い子が多いとは思う。
早紀は女子バスケ部。長身でスラッとしていて美人。男の子よりもむしろ女の子に人気がある。
ただ、その麗人然とした見かけとは裏腹に結構熱くなるタイプで、入学してからずっともう一人の男子バスケ部の佐藤一くんにお熱だ。佐藤くんに近づく子がいたら牽制しているところは正直怖い。でも今は少しだけ気持ちもわかるようになった。少しだけね。
まぁ、隙あらば、うちとバスケ部の佐藤くんがお似合いだとか言い出す無責任勢が出てくるから、揉めないようにというのもあって心から応援しているし態度にも言葉にも出している。
正直ハジメと付き合っていることを言って、安心させつつ口止めするのも一つの案かもしれないが、女子のここだけの話を信用できるほど穏やかな学生生活は送ってこなかった。
優子は小柄で落ち着いた子。食べるのが好きで、生まれつきらしい少し茶色がかった髪と相まってリスをイメージさせる。敢えてだろう、前髪で目立たないようにしてる。実は可愛い顔立ちを前面に出したら、その胸部についている凶器と共に男子人気が今より爆発するんじゃないだろうか。……ハジメはどうなのだろうか、うちもそこまで小さくはないはず、なんだけどな。
頭も良くて、グループではバランサー。誰の愚痴も穏やかに聞くし、意外と生々しい猥談も大丈夫。
男の子との距離感の取り方の上手さを見てても、きっと中学の時に彼氏がいたか、今も隠れて彼氏がいるんじゃなかろうかと千夏は思っていた。深入りはしないけれど。
中学でああいうことがなかったら、親友になれたかもな、と思うほどいい子だ。もしかしたらうちの仮面も見透かされていて、それでいて見逃してくれている雰囲気すら感じる。
玲奈は清楚美人という感じ。黒髪に切れ長の瞳、そして肌が白くて、露出は全然ないのに、同性のうちでも時々自然と見える素肌にドキッとする。弓道部に所属している。
こちらは早紀とは違って見た目通り清楚系で、実際にお嬢様だった。噂によると同じくらいの家柄の同年代男子で許嫁が居るらしく、聞いてみると隠してもいない事実で、親が決めたとのこと。
やばい、上の世界の人がいた。なのに特に家柄の良さを鼻にかけないし、それでいて品がある。品ってどうやったら醸し出せるようになるのかしら。
ちなみに、その許嫁には現在別の彼女が居るらしい。これまた深入りはしない。
でも他の子が聞くノリになると程よく止めたり、時には聞く側に回ったりするようにしている。
仮面を付けているとは言っても、このグループはいい子ばかりだ。それに、うちが特段仲が良くても、周りからも変には思われないし、それでいてお互い良い距離感。
だから楽しくはあって、それはこの高校に入って良かったと思っている二番目だ。昔は一番だったけど、今は更新されている。でも大事なことには変わりない。
基本的に、早紀や玲奈が部活に行く時間で解散となる。
その前に、うちが皆とお喋りをしている間に、というかチャイムが鳴ると同時くらいにハジメはさっと居なくなる。あの気配の消し方はある意味凄いと思っていた。
男子達の中には、よく知りもしないでハジメの事を下に見ているのもいるし、早く帰るのも友達が少ないからとか話してるのが昔聞こえたことがあったのも事実だ。流石に二学期になってまでわざわざ声に出してそんなこと言ってるのはいないけど。
でもうちは、その早く帰るのがバイトだったり、無い日でも16時からのスーパーのタイムセールに間に合うためだと知っている。
そして、料理が上手いことも、バスケが上手いことも、優しいことも…………最近少しだけ、キスしてくる時の角度や前髪をよけるのが上手になってきたのも、うちだけが知っている。
◇◆
夜は、ご飯を一緒に食べて宿題をやって、お互いにお風呂に入ったらゲームをしたり映画を見たりして過ごす。
うちだけが知っているといえば、ハジメの家のゲームは面白いものが多かった。
初めて自分でクリアしたのは、シロちゃんがいた頃やっていた、赤い髪の冒険者が乗っていた船が遭難の末、流れ着いた孤島の謎を冒険しながら解き明かしていく壮大な作品。
初めて、ゲームのストーリーでも泣かされる事を知った。
後は厨二病みたいな主人公で本当に面白いのかなって最初は思ったメールで世界線というものを変えていくゲームもした。物凄く最後に感動させられるノベルゲームだった。ちなみに今はその派生作品の比翼恋理というのをやっている。
ゲームは食わず嫌いだったけど、好きな人が好きなものをやってみたいってこと以上に、純粋に面白かった。
もちろん、恋人同士だから、時折キスをしたり、抱きついたりもしてる。
でも、それ以上のことは、正直したいこともあるけど、何となく二人共、暗黙の了解のようにキスと抱き合うまでに留めていた。
本来止めてくれる枷が今は無いから、うちらはきちんと自制する。怖いのもあるけど。多分ゆっくり進みたいんだと思う。
男は狼だなんて言うけど、ハジメはそういう意味だと紳士だった。ヘタレと言うと照れたように紳士を希望するところも好きだ。
――――風呂上がりに目線は感じたりもするから、魅力がないわけではないはずだし、大事にしてくれていると感じる。
多分一度踏み越えたら、歯止めが効かなくなるのがわかっているというのもあった。
そのくらいうちはハジメが好きで、ハジメはきっとうちのことが好き。
◇◆
「千夏、そろそろご飯できるから起きてきてねー」
ハジメがうちを呼ぶ声がする。
それにはーい、と返事をして、うちは少しでも可愛く思ってもらえる表情を作りつつ、下に降りるのだ。
 




