176 基本ダンジョン攻略技術者試験31
己に近づいてくる気配に『彼』は気付いている。
ほかの誰が気付かなかったとしても『彼』だけは気付くだろう。
他ならぬ『彼』の心に、消えぬ畏怖と服従を刻み付けた『彼女』のことを『彼』は一時も忘れたことがない。
恨んでいるわけではない。
いや、怨みが無いかと言われれば間違いなくNOと答えるだろうが、それは別に彼の行動指針を一から十まで復讐に決めるほどではない。
それに当然、感謝もしている。
今の自分を生み出したのは間違いなく『彼女』である。もし『彼女』がいなければ『彼』がこうしてマトモな自我を持つ事すら難しかっただろう。
だが、それはそれ、これはこれだ。
極めて合法的な理由で、極めて有利な条件で、彼女に牙を剥く事が許されているという状況なら、止まる理由がない。
すなわち『彼』は越えたいのだ。
その心の奥底にまで刻み込まれてしまっている『絶対強者』の幻影を。
そう、これは己が己となるための戦いなのだ。
雄として──ドラゴンとして生まれたからには、必ず越えなければならない試練なのだ。
決して『彼女』の教育方針に従って生きて来た結果、幼馴染のドラゴンに振られた腹いせで、死ぬ程弱体化している『彼女』をボコボコにしようなどという浅ましい考えではないのだ。
誰に言い訳するでもなく『彼』は自分自身にそう言い聞かせた。
先程まで、少々頭に血が上って、意味も無く追いかけ回してしまったが、ちょっと落ち着いて冷静に考えれば、極めて道理の通った案件なのだ。
だから、まるで観念したかのようにゆっくりと近づいてくる『彼女』の気配が、何を企んでいたところで、心を乱すことなどない。
そういうのはドラゴンパピーの時代に卒業したことだ。
今の自分は、良く分からぬ場所に喚び出されはしたが、力で世界を統べた竜王である。
そんな彼が、無様に取り乱していては支配下に置いたドラゴン達に申し訳が立たない。
だから彼は──酷く冷静に迫り来る気配を待ち構え。
そして現れた彼女に、こう声をかけられた。
「よう、振られ虫! 慰めにきてやったぜ?」
「グォオオオガアアアアアアアアアアアオ!」
「威勢だけは良いなぁおい!」
咆哮。
その挑発に『彼』は我を忘れるほどの勢いで殴り掛かった。
だが、その実、怒りで我を忘れたわけではない。そう見せただけだ。
先程の手合わせで、いかな母──ドラ子であれどこのフィールドでは自身に敵わないということは分かっていた。
第二形態を出されたら分からないのだが、彼女は何故かその手を使えないということも、なんとなく理解していた。
地力は自分が上回っている。
地の利もこちらにある。
加えて、呼べば集ってくる配下もこちらには多い。
であれば、普通に戦っても負ける筈はない。
冷静に、安全に、慎重に、戦うというのも手の一つだった。
その上で、彼は速攻をしかけた。
こうまであからさまに不利な状況で戻って来た相手だ。
恐らく策の一つや二つは講じてきたに違いない。
策を持っている相手に対す最も有効な策は、その策を使わせないことだ。
しからば、策を弄する間もなく速攻で沈めてしまうのがセオリーだ。
その真っ直ぐに勝利を求める思考は、奇しくもドラ子が教えたことでもあった。
勝つ為に頭を使う、というのは強くなるための必須事項だと、体と心の両方に強引に理解させられた。
その経験は今でも生きている。
なればこそ、彼は彼なりに考え、その上で速攻による決着を望んだ。
事実、その考えは決して間違いでは無かっただろう。
この場の彼は知る由もないことだが──この場所とは似て非なる『試験会場』にて、『彼』と遭遇し、打倒のために作戦を立てた受験者達のほとんどは、この判断の前に立てた作戦を見せる事もなく散って行った。
だから、彼に致命的な間違いがあったわけではない。
前足で薙ぎ払うような攻撃は、突進の勢いも乗せた会心の一撃だった。
確かに、命に届いたような手応えがあった。
「効かねえなぁ」
ドラ子はその攻撃に成す術なく吹き飛び、派手に地面を転がった──ように見えた。
にも関わらず、ドラゴンの一撃を受けた筈のドラ子は、その身を焼き焦がすような炎に包まれながらゆっくりと起き上がると、プッと口から血に染まった唾を吐き出した。
「お前の拳は軽いんだよ。男の拳じゃねえ。そんな中途半端な拳してっから振られるんだよひよこ」
「グゥルルルルロオォォォオ!!」
ドラゴンは、相手の言葉は聞かないことにした。
一撃でダメなら二撃目を加えれば済む事だ。
助走で速度を乗せる距離が取れない故に、次の攻撃は鋭く尖った爪の一撃。
その一撃を確実に叩き込み、ドラ子の体は八つ裂きになる。
なる筈だった。
「どうした? ひよこが豆鉄砲食らった顔だなぁ?」
確かに引き裂いたドラ子の体は、しかしバラバラに崩れ落ちることはない。
引き裂かれた瞬間から、再び燃えるような炎が体を包み、気が付けば傷の無い姿で立っている。
その段階で『彼』は一歩後ろに引いていた。
攻撃した手に返って来たのは、不思議な感触だった。
つい数刻前、出会い頭に殴り合ったときは、彼女の体を容易く切り裂くことなどできなかった。
ドラ子が技量で己を上回っているから、マトモな攻撃が通らなかったということはある。
だが、それ以前に、彼女の体は見た目とは裏腹に、なんの合金だと尋ねたくなるくらい硬かった。
それが今は、霞や陽炎を切っているかのように、抵抗がないのだ。
それはつまり、既に自身は彼女の張った、何らかの術中にハマっているのだと理解せざるを得なかった。
「怖れているなひよこ? 足が下がったぞ?」
「グゥ、グルルルルゥウ」
「タイマン中に相手にビビるたぁ、見下げ果てたドラゴンだなぁ」
「グウォオオオオン!!」
じりじり、とドラ子が一歩ずつ近づいてくる。
彼は苦し紛れに攻撃を放つも、彼女の体に当たったそれは再びすり抜け、ドラ子の体は炎に包まれる。
このままではいけない、そう彼は思った。
後ろに下がろうとする本能を、理性の力で押しとどめ、そして逆に一歩踏み込む。
こちらの攻撃が効かぬからなんだと言うのか、相手の攻撃もこちらには届くまい。
であれば、相手の手品のタネが割れるまで攻撃を繰り返せば良いのだ。
そう。
ドラ子の攻撃は、決して『彼』に有効打を与えるようなものではなかった。
さっきまで、の話だったが──。
「舐めてんじゃねえぞごらぁ!!」
「ゴオォオォォオオオ!?」
苦し紛れに繰り出されたドラゴンの甘い攻撃。
そこにドラ子は、カウンターを叩き込んだ。
ドラゴンがドラ子に殴られた瞬間、ドラゴンの全身を幼いころに何度も経験した苦痛と衝撃が駆け抜けた。
脳髄を揺さぶり、身体全体に走った痛みが、彼の戦意を大きく削る。
だが、それでも黙って攻撃される謂れは無い。
相変わらず手応えのないドラ子だが、有効だと信じて攻撃を続けるしかない。
そして、そんな彼の戦意を挫かんと、ドラ子は何度も拳を叩き込む。
「おおおおおおおおおおおおお!!」
「ゴォォォオオオオオオ!」
ドラゴンとドラゴンの戦いがそこにはあった。
既に言葉はなくなり、雄叫びだけが魂の色を誇示していた。
ただ、己の存在を示すための、拳と拳があった。
──────
その戦闘の余波は、離れて覗いていたカワセミの頬にも、熱気になって届くかのようだった。
「本当に殴り合ってる……」
ドラ子を送り出した彼女であったが、その実、不安しか無かった。
何せ、ドラ子は、竜王に勝つ為の、なんの策も持っていなかった。
ただ、本当に、真っ直ぐいってぶっ飛ばそうとしているだけだ。
竜王は警戒していたが、本当にドラ子は策などもっていなかった。
だから、冷静に、安全に、慎重に戦うことが、彼の最適解だった。
その最適解を選ぶ理性を、ドラ子の挑発で奪われてしまったのだが。
それ故に、ドラ子が望んだ真っ向からの殴り合いは、ここに成立した。
「ドラ子ちゃん、時間はないわ……早く、決着を付けて、本当に」
だからといって、ドラ子の取った戦法は、正気の沙汰とは思えなかった。
カワセミは、ドラ子の言葉を最初は冗談だと思ったし、それが本気だと分かれば結構真剣に止めた。
だが、それで止まるドラ子ではなかったということだ。
「でも、本当に、心臓に悪いから、お願い」
カワセミの願いの向こうでドラ子がまた盛大に炎に包まれている。
その手応えの無さに、竜王の攻撃の手が次第に鈍っているのが分かる。
だが、それが間違いなのだと、カワセミは知っている。
傷ついたドラ子から漏れ出す炎は、文字通りドラ子の命を燃やしながら噴き出しているものなのだった。
次回、ネタバラシ
今更ですが、気づいたらブックマーク200件と評価1000ポイントを達成していました。
こんなニッチな作品を応援してくださってありがとうございます!




