98. リーンの部屋02
少しずつ顔を近づけると目をつむってくれて、唇が重なりあうまであとわずか――というところで、背後からブクブクカタカタと音がした。
「あー! 鍋かけっぱなしだった!」
驚くリーンをそのままに、慌ててコンロに駆け寄り火を止めた。少し吹きこぼれたが、中身は無事である。何度かかき混ぜると予想以上に野菜が柔らかくなっていた。
何より、せっかくいい雰囲気だったのにとんだ失態である。振り返ると、リーンは布団につっぷして肩を震わせていた。
「リーン?」
「あなたといると毎日が楽しいわ」
その言葉を真正面から受け止めて、褒められたと喜ぶほど、俺はおめでたくないぞ。
「そんなに笑われると恥ずかしいんだが」
今度は俺の方がすねる番だ。
「でも、そういうところが好きなんだから、どうしようもないわね」
そう言い切ったリーンは、見惚れるほどきれいな笑顔を見せてくれた。
「さて食事にしましょうか。もう出来たんでしょう?」
「え、ああ」
でもキスは?
「鍋はないけど食器はいろいろあるのよ。どれがいいかしら」
リーンはベッドから起き上がり、キッチンの棚から皿を選び始めた。
「あのリーン、さっきの続きは」
「また後でね。冷める前に食べましょう」
にっこり微笑まれて皿を渡されたので、仕方なく盛り付けるしかない。
後でか……後でってどれぐらい後で? っていうかリーンのかわし方が上手すぎないか。なんで? どうして? え、まさか手慣れてる?
疑問はたくさん沸いてきたが、答えてくれそうな雰囲気にも見えず、ひとまず頭を切り替えて食事の用意をすることにした。
その後は久しぶりに二人きりで食卓を囲み、煮込み過ぎたポトフを食べた。
「美味しい」
「ちょっとじゃがいもが崩れてるけどな」
「このほくほく感がいいの」
リーンの嬉しそうな表情に俺も口元が綻ぶ。
「ところでレジ―たちはどうしているの?」
「聴取は終わったけど、親父さんがずいぶん弱っていたから、もう少し回復するまでは騎士団へ置くことにしたんだ」
「それなら帰るときは教えてね、挨拶したいから」
「ああ、分かった」
レジ―はともかく姉の方に会わせるのは、また余計なことを蒸し返さないか不安だが、リーンに気にした様子はないので、まあ問題はないだろう。
ちょっとくらい妬いてもらいたい気もするけどな。
俺が食事の後片付けをしている間に、リーンはお風呂の用意をしてくれた。
「俺はリーンの後でいいからな」
「どうして?」
「髪を乾かすのに時間がかかるだろ。それに家でもいつもそうしてたし」
「でも今日はいろいろあって疲れたでしょう。先に入っていいわよ」
「半日寝ていたようなものだから大丈夫だよ」
リーンは不承不承ではあるが、先に風呂へと入った。
しかし待っている間は、なんだか手持ち無沙汰でそわそわしてしまう。家では俺、何してたっけ。
この部屋のベッドは家にあるものより狭いが、一人で寝るには十分な広さで、二人でも狭いというほどではない。というか、もう少し狭くてもいいぐらいだ。
暇すぎて、考えなくても良いことを考えてしまう。
例えばさっきの続きとか。また後での後でとは、これからの時間のことだよな。もちろんリーンの嫌がることは絶対にしないと誓えるが、そもそも強引にこの部屋に寝泊りすると決めてしまったことを、嫌がられていないだろうかとか、不安と幸せが入り混じったような気分で落ち着かない。
背後にある風呂場から水音が聞こえてくる。リーンが入っているので当たり前だが、いつもと違う状況のせいか、そわそわが止まらない。
風呂から上がったリーンは、俺の気も知らずさっぱりした顔をしていて、以前と変わらず無防備だ。
「次どうぞ」
「ああ」
リーンの髪が濡れているのなんて見慣れているはずなのに、なぜか心臓が早鐘を打っている。久しぶりに見たからかな。
「冬なんだから髪はちゃんと乾かすんだぞ」
「はいはい」
口うるさく言われるのが、嫌いなところも変わらない。
脱衣所に入ってから気づいたが、そういえば土砂崩れの際に着ていた俺の制服は、どうしたんだろうか。気を失っているうちに、誰かが着替えさせてくれたみたいだけど、まさかリーンじゃないよな。うん、それはないな。
この後は、寝るにはまだ早いから、リーンの髪を乾かしながらもう少し話したい。その後はなるようになるだろう。
いろんな期待に浮かれたり心を落ち着けたりしながら風呂から上がり、手早く夜着に着替えて脱衣所から出た。
しかし、なんということだ。リーンはソファで眠ってしまっていた。
「まあ、こんなことだろうとは思ってたよ」
全然悲しくないもんね。
まだ髪が濡れているので、体を少し起こして魔法で温風を出して当ててやった。しかし髪を手で梳いても、起きる気配がまったくない。無防備とはまさにこのことだ。
やはり疲れているんだろう。リーンにとってここ数日は大変な出来事が続いた。体調を崩してもおかしくはない。
ついでに自分の髪も手早く乾かし、リーンをベッドへと移動させた。
家のベッドは二人で寝てもぶつからない程に広いが、このベッドにそこまでの余裕はない。隣に並んで横になり布団をかけると、なぜかリーンは俺の方へと体を寄せて来た。
「寒いのか?」
呼びかけても返事はなく、ぐっすり寝ている。頬をつついても起きない。
「ちょっと安心しすぎじゃないのか」
思いが通じ合った日に、好きな女と同じベッドに入ってただ眠るだけなんて、同僚たちが知ったら、手を打って喜び笑うだろう。
でもリーンはそんな俺がいいと言ってくれた。俺もそんなリーンがいい。
「おやすみ」
頬にそっと唇を当ててみると、その柔らかさに、さらに追い込まれた気分になった。
次の日、リーンの部屋から護国騎士団へ出勤すると、土砂崩れ事故について新たな証拠が出てきたと、チリアン隊長に教えられた。
ネール男爵の工作は、はっきり言って素人仕事だった。俺たちを嵌めるために雇った者たちもすぐに見つかり、いとも簡単に証拠は集まったらしい。
「どうしてネール男爵は自分で動いたんでしょうね。足がつく可能性があると、分からなかった訳ではないでしょうに」
ブラックスライム騒ぎを起こしたクリムソン伯爵は、レンタ商会という隠れ蓑を持っていたが、そういった存在も今回はなかった。
「考えられる理由としては、皇太后直々の命令ゆえに他に漏らせなかった。また荒事に慣れていなかったというところだろう」
「露見すれば切られることは、目に見えてるじゃないですか」
「私ならば決定的な証拠を得ておくな」
確かに皇太后直筆の指示書などが出てくれば最高だ。そこまでじゃないにしても、何か証拠を持っている可能性は高い。
クリムソン伯爵の方は、近衛師団が調べていて、まだ結果は教えられていない。
「それから此度の件について、他の隊長らとも話し合った結果、国王陛下へ具申することになった」
「宰相辺りが邪魔してきませんかね」
「邪魔が入らぬよう、謁見の場を設けて直接申し上げたい。錬金術室長にその手配を頼めないだろうか」
「珍しいですね、隊長が正規の手段を踏まないなんて」
「正規の手段を踏むというのならば、そもそも宰相が間に入ることがおかしいのだ」
それもそうか。前の国王が、宰相にその役割を振っただけで、俺たちへの命令権は国王陛下が持っているんだものな。
「分かりました。今夜にでも話しておきます」
チリアン隊長が俺の顔をじっと見つめてきた。
「どうしました」
「いや、この用紙は不要になったようだと思ってな」
チリアン隊長が胸ポケットから紙を取り出し、ひらひらと揺らした。そこには婚姻解消届と書いてある。
「そんな物まだ持ってたんですか」
「お前の物を勝手に捨てるわけにはいくまい」
「無理やり取り上げたくせによく言いますよ。そんな縁起の悪い物は、すぐに処分してください」
「承知した」
なんの躊躇もなく隊長は火魔法を使い、みるみるうちに紙は燃え尽きた。灰を見つめながらチリアン隊長が呟いた。
「しかし用意したのはこれ一枚だけなのであろうか」
「は? 普通そんな物を何枚も用意しないでしょう」
「そうか、人によっては百枚は必要なようだが」
「いやいや、どんな事情があったら百枚なんて、馬鹿みたいな数が必要になるんですか」
「別れたくないとごねる伴侶に、破られたり、燃やされたりする可能性があるそうだ」
「それはまた、よっぽどのろくでなしと結婚したんですね」
チリアン隊長がふっと息を吐いた。ん? 今、笑ったのか。いやいや、笑うところなんてなかったよな。
「想像の話だ」
「なんだ。俺はてっきり、離婚経験が百回ある奴がいるのかと思いましたけどね」
「なるほど。そうも取れるか。興味深いな」
相変わらずよく分からないことに興味を持つ人だな。
「さて、それではネール男爵のところへ行くか」
「国王陛下の謁見を待つんじゃないですか」
「待っている間に証拠を潰されても困るからな。他の貴族がしゃしゃり出てくる可能性もある。早めに抑えておきたい」
「はい」
ちなみに今回の件に巻き込まれた奴らも既に復帰していて、これから向かう先に、共に連れて行くことにした。
立派な当事者だからな、さぞ張り切って働いてくれることだろう。
ネール男爵は、痩せて小柄でおどおどしている男だった。
「何か用かね。わたしは忙しいんだ」
では手っ取り早く終わらせてやろうと、土砂崩れ事故を起こした現場責任者からの調書を、目の前に並べてやった。
ネール男爵はそれらを一読するなり顔色を変えた。手が震えていて、いかにも小心者といった様子である。皇太后はよくこんな男にやらせようと思ったものだ。よほど人材を欠いているのだろう。
「まだ公になってはおりませんが、別件でクリムソン伯爵も捕らえられました。ああ、ネール男爵は、もちろんご存じでいらっしゃいますよね。共通のお知り合いがいらっしゃるのですから」
嫌味が通じたようで、いよいよネール男爵の顔色が紙のようになった。
「あと少し救助が遅かったら、私の部下たちは命を落としておりました。ここにいる彼もその一人ですし、外に控えている者たちもそうです」
もちろん俺の顔は知っているのだろう。男爵は視線を上げなかった。
「さて私たちが窺ったのは、あなたが誰からの命令で動いたかを、ご教示いただくためです」
「それは……」
まだ皇太后を庇おうという気持ちが残っているというのも、不思議なものだ。それとも王族という権威が自分を守ってくれると思っているのか。
「ちなみにクリムソン伯爵については、皇太后陛下は何も知らないの一点張りらしいですよ」
俺がそのように付け加えると、ネール男爵はようやく顔を上げた。その口元が妙な形にひきつっている。
これは落ちたな。




