咎人が望むのは(3)
──この、人殺し!
ハッ、とジルは目を開く。耳にこだまする、痛みを孕んだ声。辛くて、悲しくて、今にも泣いてしまいそうな。
ジルはゆっくりと呼吸を整え、体を起こした。見慣れたジルの部屋。窓から差し込む光は、部屋の中を茜色に染める。夕暮れ時だった。
その時、コンコン、とドアが叩かれたかと思うと、すぐに開かれる。
「起きましたか」
入って来たのはレイファルだった。心配そうな表情を浮かべている。
レイファルはゆっくりとジルのいるベッドに近づき、傍にあった椅子に腰掛けた。
「覚えてますか?」
「……はい」
ジルはこくり、と頷く。確か、そう、あの子に言われたのだ。……「人殺し」と。そして、レイファルがジルから離れかけたその直後、意識を失ったのだ。
レイファルは「そうですか」と呟くように言う。まるで、つい口から零れ落ちたみたいな。そんな声。
「……アレンの言葉は、気にしないでください」
その言葉に、ジルはそっと目を伏せた。
アレンとは、ジルに「人殺し!」と叫んだ少年だった。そして、……ユアンの二つ年下の弟。
ユアンとアレンはとても仲の良い兄弟だった。ユアンはアレンを可愛がり、アレンもユアンを尊敬していて。……たまにユアンとのデートを邪魔されるほど。それくらい、アレンはユアンが大好きだった。
だからこそ、彼はジルを許せなかったのだろう。ユアンを殺した、ジルを。
「でも、私がユアンを殺したのは事実です」
「違います。あれは不幸な事故です」
「でも、……でもっ!」
思い出される、ユアンの最期。血に濡れて、徐々に温もりを失っていく体。弱々しくなる息。良かった、という微かな安堵の声。心底嬉しそうな、力のない笑顔。
不幸な事故。そんなわけない。だって、ジルが注意していれば起こらなかった事故なのだから。
だから、ジルが殺したも同然。
じんわりと視界が滲む。ユアンは死んだ。私が殺した。それが辛くて、悲しくて、寂しくて、……よく分からない。
ジルの息が早く、浅くなっていく。上手く、呼吸ができない。吸っても吸っても、空気が入ってこない。ジルは胸を押さえた。過呼吸だった。
「落ち着いてください! ……大丈夫、大丈夫ですから。ゆっくりと息をしてください」
レイファルが慌ててジルの背をさする。ガタガタと震え、青ざめているジル。……やがて彼女が落ち着きを取り戻す頃には、もうどっぷりと日が暮れていた。レイファルがジルから目を離さないまま、ランタンを灯し、空気を入れ替える。
開けられた窓。遠くから微かに楽の音が聞こえてきた。おそらく、どこかの貴族が夜会でも開いているのだろう。王都では、毎夜、必ずどこかで夜会が開かれるものだ。
それらが、全くの別世界のように感じる。ユアンが死んでから今まで経験してきた全てが、まるで夢だったかのように。そう思ってしまう。
ジルの瞳から、はらはらと雫が零れ落ちた。
「ごめ、なさ……。ごめん、なさい……っ!」
泣きながら、ジルは謝る。謝り続ける。誰に対して? ……たぶん、全部に対して。
そんなジルに、レイファルは静かに寄り添う。静かに、優しく、包み込むように。
……痛ましいジルの嗚咽だけが響く部屋。しばらくして、やっと、ジルが落ち着いたらしく、すすり泣き声に変わる。
「……ご迷惑を、おかけしました」
掠れた声でジルが告げる。レイファルは「……いえ」と返事をして、眉を下げてジルを見た。
充血した瞳に、未だ流れ続ける涙。擦り続けたために赤く染まった頬。それらが、今の彼女を彩る全てが、とても痛ましい。
「ジル嬢……」レイファルが声をかけた。「大丈夫ですか?」
「……はい」
小さく、弱々しいジルの声。レイファルの瞳には、全くもってそうは映らなかった。精一杯強がっているのが窺える。けれど、そう言ったところで、どうにもならないだろう。自らの傷を必死に隠すのが、彼女なのだから。
「……ジル嬢」
レイファルの呼びかけにジルはのろのろと視線を上げ、レイファルの顔を見る。けれど、その視線は少しだけずれていた。ぶつからない瞳。レイファルは優しく語りかけた。
「ベルナール侯爵夫妻とアレンは、王都の屋敷に帰りました。また後日、落ち着いたらあなたの元に伺うそうです」
「……そう、ですか」
ぽたり、と落ちた声。まるで泣いてるかのような、寂しい声。
また、会いに来る。それは……良いかもしれない。
ジルはきゅ、とシーツを握る。放射線状に広がる皺。冷たい夜風が窓から入り込み、さらりと肌を撫でた。
静寂に満ちた部屋で、ゆっくりとレイファルが言う。
「ジル嬢、ゆっくりと乗り越えましょう。それで、アレンとも仲直りをして……」
「乗り越える?」
レイファルの言葉を、ジルが遮る。乗り越える。どうして?
「……ジル嬢?」
「何で、乗り越えなければならないのですか?」
ジルがユアンを殺した。それは、ジルの中では確かな事実だった。だから、ジルは罰を受けなければならない。乗り越える必要なんてない。ずっとずっと、ユアンの死を抱えて生きて、生きて、……そして死ねれば。それで。
ジルのその考えに、レイファルは眉をしかめた。どうやら、納得していないらしい。
「それは、おかしいです。だってユアンは──」
「出てって!」
ジルが突如叫んだ。悲痛な声が響き渡る。
「お願い、出てって! もう来ないでっ!」
嫌だ。聞きたくない。認めたくない。許されたくない!
ジルはレイファルを突き放した。困惑したようになおも手を伸ばす彼を、枕を投げることによって遠ざける。ぱふ、と枕が軽い音を立てた。レイファルは一歩後ろに下がる。
シン、と静まり返った部屋。ジルの荒い息がやけに大きく響く。
「……わかりました」
レイファルが告げる。
「今日は、帰りましょう。また明日来ます。……疲れたでしょう? 今日はもう休んでください」
「……」
ジルは返事をしなかった。レイファルの思いやりの言葉が、じんわりと心に染みる。それを認めたくなくて、その言葉に安らぎたくなくて、無言を決めこんだ。
「……おやすみなさい、ジル嬢」
レイファルは痛々しい表情を浮かべて、ジルにそう告げる。返事はなくて。悲しげに目を伏せながらも、レイファルはこれ以上話しかけることなく部屋を出た。
パタン、とドアが閉まる。しばらくそのままでいて、レイファルの足音が聞こえなくなり、馬車の音も遠ざかると、ジルはベッドから降りて窓際へ。
風に揺れる、一輪の忍草。それを見て、泣きたくなる。
(ユアン、私は……)
ジルは首を振って、思考を振り落とす。これ以上考えては、ダメ。後戻りできなくなる。
遠くから聞こえる楽の音。楽しげな歌声。
それらが疎ましくて、憎くて、耳にしたくなくて。ジルはそっと窓を閉めた。