指先への誓い(2)
ガタガタと揺れる馬車。微かに漂う香水。煌びやかな衣装。
久しぶりの華やかな夜会にほんのり緊張を帯びながら、ジルは対面に座るレイファルを見つめていた。
レイファルは微笑みを浮かべ、ジルを眺めている。
広い馬車の中はとても静かだった。ぽつりぽつりと交わされる言葉。「綺麗だね」「レイファル様も」そんな短い言葉のやり取りは、未だにどこかぎこちない。
ゆっくりと時間の流れる馬車の中は、ジルにとって居心地が良いものだった。深入りをせず、当たり障りのない会話は、けして互いを傷つけることがないから。
けれども、その時間もあまり長くは持たなかった。王都の貴族の屋敷はまとまった場所にある。そのため、今回の夜会の会場であるデルヴィーニュ侯爵家は、伯爵家からすぐ近くだった。
──カタン。音を立てて馬車が止まる。もう着いたのだろう。
ジルが立ち上がろうとすると、レイファルが慌てて押しとどめた。
「待ってください」
「……分かりました」
レイファルは僅かに逡巡した後、ポケットから小さな箱を取り出した。黒く、金で装飾の施されたもので、これだけでもかなりの値段だとは察せられた。
ゆっくりと、小箱が開けられる。そこに入っていたのは、小さな純白の羽と幾つかの宝石がついたイヤリング。
「これを、ジル嬢に」
「……ありがとうございます」
素直にお礼を言って箱ごと受け取ろうとしたところ、小箱を移動させることによってレイファルに遮られた。どうして? ジルが首を傾けていると、レイファルは丁寧にイヤリングを取り出し、ジルの耳元に近づけた。
自らの手で、ジルにつけようとしているのだ。
「だ、大丈夫です。自分でつけれます」
動揺した声。
「私がつけたいのです」
「でも、……触れられたく、ありません。人目もないところで」
ジルの言葉で、すっ、とレイファルの顔から表情が抜け落ちる。まるで、悪いことをしたみたい。そう、錯覚してしまう。
「……分かりました」
渋々と、レイファルはジルの手にイヤリングを落とした。チャリ、と金属音が鳴る。少しだけ申し訳なく思いながら、ジルはイヤリングをつけた。右耳、左耳。つけ終わったところで、気づく。
(私が申し訳なく思う理由、なくない?)
仮とはいえ、婚約者。しかも、お互いがお互いを利用する関係。心象的には、二人は対等と言えよう。
だから、わがままを言ってしまったと申し訳なく思う理由はないのだ。
(……そもそも、レイファル様のわがままがきっかけだし)
むしろ責めてもいいのではないか? そんな思いが顔をもたげる。
(うん。私は悪くない)
「では、参りましょう」
レイファルが手を差し伸べた。この手は取らないわけにはいかない。
ジルはそっと手を乗せた。それを見て、レイファルは寂しげな笑みを浮かべる。……どうして?
扉が開いて目に飛び込んできたのは、過剰とも言える装飾。品はないかもしれない。けれども、それで自らの経済力を示しているのだ。
デルヴィーニュ侯爵家。本日の夜会の会場だった。
ジルとレイファルを見て、ヒソヒソと交わされる会話。何を言っているのかは分からない。だけど、それほど良いものではないことは容易に察せられた。
くい、と腕が引かれる感覚。レイファルが馬車から一歩降りていた。慌ててジルも続く。
ふんわりと膨らむドレス。ジルの瞳と同じ若草色。
レイファルが笑った。今度は先ほどとは違う、作り物めいた微笑。
そのことに安心しながら、ジルは指先に力を入れた。
ホールに入ると、視線が一点に集まったのが分かった。羨望、嫉妬、感嘆……。多くの感情が一ヶ所に集まり、ジルに絡みつく。
息苦しくなって、レイファルと重ねていない左手で、きゅ、とドレスの裾を握った。ドレスにできた皺。不安定に揺れるジルの瞳と同じ。
「ジル嬢」
レイファルがジルの手を引いて、一歩、ホールへ足を踏み入れた。急なことだったため足がもつれる。
「大丈夫ですよ」
何が? そう訊く前に、レイファルが再び口を開く。
「私があなたを守ります」
目を細めて、優しく包み込むような笑みを浮かべる。とても温かい。ジルはそう思った。
ジルの左手がするするとドレスから外れる。少し皺が残ってしまったけれど、まぁ大丈夫。レイファルはにこりと笑みを深めて、歩み出した。
足が一歩前へ出る度に揺れる若草色。戸惑いを含んだ瞳。久しぶりで、緊張していた。
ホールは少し前とは違い、様々な話をする人で溢れていた。ジルに刺さる視線もあるけれど、明らかに減っている。
他人の噂話だけをしているほど、貴族に余裕はない。それもたった一人なんて。
そのことにジルはほっとしながら、歩みを進める。向かうのは、主催であるデルヴィーニュ侯爵の元だった。
デルヴィーニュ侯爵の周りは多くの人がいた。侯爵の権威を借りたい取り巻きやら、二人と同じように挨拶をしに来た者たち。
挨拶するまでに時間がかかるかも。人混みを見てジルはそう思って内心苦い顔を浮かべたけれど、レイファルはそうではなかった。当然のようにデルヴィーニュ侯爵の元まで一直線に向かう。そして、辺りの人々もレイファルを見ると体をどけた。
そこでやっと、ジルは思い至る。
(そっか、公爵家だから……)
公爵家に睨まれたくないから。だから皆、レイファルに道を譲るのだ。
やっぱり家の力はすごい。そう思いながら、ジルは粛々と、内心ではちょっぴり感動しながらデルヴィーニュ侯爵の傍へ向かった。
「デルヴィーニュ侯爵」
「おお、マリスグレイヴ様」
「お久しぶりです」と言って、侯爵は笑った。そしてちらりとジルを見る。その瞳には嫌悪の色。
「お久しぶりです。今回はお招きいただきありがとうございます。こちらが私の婚約者のジル嬢です」
レイファルが告げる。
ぴく、と肩を跳ね上がったものの、ジルは表面上穏やかに礼をとった。
「エルメン伯爵家が長女、ジルと申します、侯爵さま」
視界の片隅に、レイファルから貰ったイヤリングが映り込む。不安定に揺られる様は、ジルと一緒。
「なるほど、エルメン伯爵令嬢でしたか。確か、昨年婚約者を……」
「ええ、そうです。ですので、あまり触れないでいただけると嬉しいです」
そう返事をしたのはレイファルだった。ジルのためなのは明白で。……申し訳なかった。
レイファルの言葉に、デルヴィーニュ侯爵はにこりと微笑む。完全に作り物。
「それは申し訳ないことをしました」
それだけ。謝罪ではなく、ただの事実確認。ジルは腹立たしく思いながらも、侯爵に反論する事はできないので黙って微笑みを浮かべた。
……僅かに沈黙が降りる。
「……では、今夜はお楽しみください」
侯爵はそう告げ、レイファルも「ありがとうございます」と返事をした。そして、レイファルはジルの手を引いてその場から離れる。
歩いている間、会話はなかった。まるで二人だけが世界から切り取られたかのように、静かな空気が辺りを包んでいた。
それが、少し心地よかった。決して、デルヴィーニュ侯爵のようにジルを傷つけることのない安心感。真綿に包まれなような暖かさ。
幸せだな。そう思いながらジルがレイファルについて歩いていると、音楽が流れ始めた。見回すと、ホールのあちらこちらで男女が手を取り合う。ダンスの時間だ。
「ジル嬢」
呼ばれて彼の方を見ると、いつの間にかレイファルは腰を折ってジルに手を差し出していた。
「私と踊ってくれますか?」
「……はい」
本当は踊りたくなかった。けど、ここで断ったら何事かと思われる。こんな時でも、ジルとレイファルの一挙一足に目をやってる人物はいるのだから。
ジルはレイファルに差し出された手を取って、ホールの中心へと歩み出した。